トップページ | 2005年11月 »

2005年10月30日 (日)

反日日本人

 本来のコンセプトから脱線し、お前はネット右翼か。そういわれそうなここ数回の内容だが(まだまだ甘いけど)、左翼を批判したから右翼だ、などという短絡的な結論に結びつけられては困る。ただおかしいと思うことを調べていくうちに左カーブが大きくなり、すっぽ抜けのビーンボールだと分かってしまうのだ。だから僕は「退場だ!」と言いたいだけである。

 ところが僕は何に対して腹を立てているか具体的に書いていないので、ブログを読んでいただいている方に申し訳なく思い、読んだ本から1つ紹介する。著作権の問題もあるため、著者が引用している当事者の「コメント」をそのまま書かせていただく。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
「 朝日新聞は拉致問題の扱いが少なく、被害者の立場にあまりたっていない感じがした。コメ支援の記事は大きく載るが、拉致問題の集会は小さい。人権を強調しているのに、朝日新聞は拉致という人権問題をあまり取り上げなかった。
 99年8月31日朝日新聞の「『テポドン』1年の教訓」と題する社説に「日朝国交正常化交渉には、日本人拉致疑惑をはじめ、障害がいくつもある。」とあった。私は「拉致問題で騒いでいる私たち自身が、交渉の障害となっているかのようにとられる」などと抗議文を送り、親の代から購読していたのを中止した。」
以下、抗議文に対する朝日新聞の返答
「北朝鮮の国家的犯罪を私たちも憎みます。「障害」という表現によって私たちの思いが十分伝わらなかったかもしれません。家族のお気持ちを傷つけたとすれば、残念です。」
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

 この当事者とは拉致被害者・横田めぐみさんの父横田滋さんである。
著者はこのあと憤りの文章を書いているが、要するに謝罪もしない、言葉の訂正もしない、我々は間違っておらず、あなた方が傷ついたのなら残念だと言っているのだ。
 こんな馬鹿なことがあっていいのか、拉致被害者が国交正常化の『障害』だと?これは一体どこの国の新聞か。もはや北朝鮮の国営メディアが日本支局で新聞を出しているようなものではないか。中国、韓国、北朝鮮は勿論おまぬけ国家だが、僕が最も義憤を爆発させるのは日本国内の愚か者である。もはや人間の心など無くしている。

 こういった事を調べ、本を読んでいくうちに自分が今まで何も知らなかったこと、表面上の印象でしか物事を判断していなかったこと、その判断材料は極めて意図的に与えられていた事が多いことに気がつく。

 再度書くが別に右翼が好きなわけではない。でももしかしたら意見が合う部分もあるかなとも思う。ところが街宣車なんてものはうるさいし鬱陶しいし、軍艦マーチを流して日の丸持った強面の兄さん達が、軍服だか学生服だか着て息巻いている。自分の意見を納得させたいはずなのに、完全にイメージ戦略を間違えている。あれでは誰でも引くだろう。 この辺が上手いと思うのは左の方々。品の良い良家のご婦人が前面へ出てきて
「戦争反対!我が子を戦場に送ってはなりません!」と叫ぶ。誰も異を唱える人などいない。僕もそう思う。ただ一つ間違っているのは演説する場所だ。テポドン撃った北朝鮮へ行って金正日の前で演説すべきだ。日本からのODAの金で作った核ミサイルを日本に照準を合わせている中国の共産党大会でぶちまけるべきではないのか。戦争反対?今更当たり前の事がよく言える。実際攻められたらどうするかを考えねばならないというのに。

 ふぅー、結構書いたなあ。まあ明日からはもう少し穏やかに摂理について考えよう。
全てのことに原因と結果がある。人間の行動も勿論そうであるから、人間が集まり形成する国も当然その法則から逃れることは出来ないはずである。あのような国が今後どうなるかは歴史を見守るしかない。また金正日の蒔いた種は果たして彼一人で刈り取ることができるのか、などと書いて脱線を少し修正してみたりする。

井沢元彦 著  「反日」日本人の正体

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月29日 (土)

女系天皇で皇室廃止 ?!

最近テレビでも話題になっている「女性天皇」
愛子様で女性天皇の誕生だ!ばんざーい!

 別にいいじゃん、と僕も軽く考えていた。ところがこちらのぼやきくっくりさんのブログ(10/27)を拝見して、実はとんでもない問題だということが分かった。ここで改めて説明は書かないが、お読みいただければすぐ分かるはずだ。

 僕も初めて知ったのだが「女性天皇」と「女系天皇」というものがあり、これらは似ているが全く意味が違う。詳しくは こちらを参考に。Wikipedia 女系天皇

 そして最も危ぶまれるのは、女系天皇(男性もあり得るわけだ)となったのち「正当性がない」という理由で皇室廃止論が出てくるだろうというのだ。(とーぜん左翼一派からのキャンペーン)これはまずいんでないの。
 スピを知る人は、地上での肩書きなんぞ後になればどうでもよい、と言われるかもしれないが、僕は国家レベルで皇室があるという事実は大変な意味があると思う。日本の皇室の歴史は2000年以上である。中国は4000年の歴史があるなどというが、あそこの王朝は滅亡のたびに皆殺しにし文化風俗も徹底的にぶち壊すものだから、中国王室の血脈などその王朝の間だけの限定である。最近でも悪名高い「文化大革命」という大虐殺と大量破壊なんぞするから古代の遺産と呼べるものも少ない。そう考えれば日本の皇室がいかに貴重な血脈かがわかる。そしてどれほど優秀な外交官にもできない役割を皇室は担ってくださる。
 もしかしたら何百年か先に人間の本質が霊だということが常識になった時、皇室という特別な身分に意味は無いという意見が出てくるかもしれないが、この先暫くは大きすぎる損失になると思う。

 この問題は愛子様に弟が出来ればすべてうまく収まる。

どうだ偉大な霊よ、日本の皇室に男子として生まれてもう一度修行してみないか?
相当な成長が期待できるんではないだろうか?

          来世、僕? 

ちょ、ちょっと遠慮させて頂きます。いろんな意味で潰れてしまいそうだから。 

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2005年10月28日 (金)

ゲージツ家

 書の話をたびたび話題にしている。書に限らず芸術家というものは、元来孤独になりやすく、また傲慢になりやすい人種だと思う。

  とにかく評価基準が曖昧である。見る人、聞く人、感じる人次第である。と言っても、書の作品を掛け軸にする場合、清書を書き上げた数枚の中から師匠に選んでもらうのだが、大抵自分と同じものを選ぶし、書道仲間で誰かの作品を品定めする場合、No1、2に選ぶの物は皆同じ物を指す事も多いので、判断基準はあるのである。(こういう時に意見が合ったりするのはある種の快感がある。)
 しかし僕も偉そうに書がどうのと書いているが、音楽の演奏を聞き比べてもでどれがどう素晴らしいなんてことは言えないし、現代アートで色々なオブジェなどを見たこともあるが、「○×△をイメージしました」と書かれてあってもこれまた分からない。
 つまり個人の主観とその知識に関わるため、客観的な判断基準など作りようもないのである。だからある分野の芸術で全くのオリジナルを創作する天才が出現しても、周囲のその他大勢がついていけないため、誰もそれを認めることができない。また逆に周囲から絶賛されても、自分ではまだ納得出来ないがそれをいかんともし難い場合もある。だから天才は苦悩し、孤独になると思う。

 また周囲からの評価が高まりその権威が頂点に達してしまうと、天狗になりかねない。その人が素晴らしいといえば誰もがそうなのかと思うし、ダメだと言えばまたそうなる。頂点を競う二人がいれば仲が悪くなりやすい。実際、書の世界は関東と関西で大きなグループがあるが、日展などで顔をあわせる大先生も東西で険悪らしい。写真をとってもわざと端と端に立っているのも見た。そして相手の作品をこき下ろすらしい。かつてある展覧会にその先生方がたまたま同じ日に入れ違いで訪問されたことがあった。僕の師匠は双方とも案内していたが、二人目が帰られてから「きわどかったよー」と本当に冷や汗をかいていた。
 結局自分が最高でほかのものを認めたくないのである。この傲慢さは例えようもない。権威は権力も併せ持つことになる。人間は一度その権力を持つとなかなか手放せないようである。そしてその権力の下へ大勢の人が集まる。○○先生の弟子である事をことさら口にする人もいる。とてもドロドロしているのだ。

 それに引き替え、町の書道塾などで小学生が一生懸命に字を書いているのを見るのは大変清々しい。先生も別段どこかで名を売ろうなどとも考えておられず、月謝をもらってもボランティア同様と思えるような活動をされている方もいらっしゃる。

 僕はいずれ子供のための書道教室か、もしくは老人ホームでボランティアの書道教室でもしたいと思っている。

 いつになることやら。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年10月27日 (木)

お隣さんは知らない事ばかり

 ブログを開始する前から、始めたとしても書こうか書くまいか迷っていた。が書いてしまえ。そう決めたのは今週TBSのニュース23で「愛国心」について取り上げているからだ。「愛国心=ナショナリズム=軍国主義」このような構図にしたいらしい。

 もともとのきっかけは2002年の日韓共催サッカーワールドカップからだった。日本のメディアはこれでもかと韓国を持ち上げていたように僕には思えた。それはまるで
「過去において日本が犯した悪行を今回の共催で水に流してくれよ。」
僕にはそう言っているように思えて、気分が悪かった。つまり当時の僕の考えは
「日本は今までさんざん悪いこと(日韓併合、従軍慰安婦、中国では南京大虐殺、その他いっぱい)をしてきたのだから、きちんと補償すべき。」
と考えており一度しっかり日本の悪行を勉強しようと思っていながら・・・暫くほったらかした後、本を読んだ。

左の皆さんごめんなさい。僕の洗脳は解けちゃいました。

 初めに読んだ本はこれだった。結構な衝撃だった。それから暫くスピは横へ置いといて中国、韓国関係の本を読み漁った。すると出てくるわ出てくるわ、ウソと捏造と大間違い。日本の未来を憂えて亡くなった方々へお詫びいたします。申し訳ありませんでした。私が間違っておりました。

 小泉総理大臣が靖国神社へ参拝すると、各メディアは(全てではない)こぞって叩きまくる。かつての僕は戦没者への思いは大切だが、中国や韓国の事を考えるとなあ・・・なんて感じだった。
 今は違う。「小泉総理よ、靖国神社へ参拝してください。それも8月15日に!」という立場だ。今回の参拝で中国・韓国から批判の声があがったが、では総理が靖国神社拝殿の掃除なんかをしても彼らは批判するのかな?と思っていたら、「たかじんのそこまで言って委員会」で橋下弁護士が言っていた。
「小泉総理は靖国神社に住んじゃえばいいんですよ!自分の家だって!」
橋下さん大好きだ。

 今読んでいる本はこれ。序盤は腹を抱えて笑ったが、中盤に入った今では背筋が凍り付いている。韓流ブームなどと未だに騒ぐが、韓国は知れば知るほど恐ろしい国だと分かってくる。韓国旅行をする人が命知らずに見える。

 勇気のある方はどうぞお調べください。テレビや新聞では韓国・中国について都合の悪い話題は流れません。このような事を書くと、大概左の方からエロサイトのトラックバックが入ってきます。それはそれで探す手間が省けて・・・ではなく、削除しますのでお好きな方は早めにどうぞ。

 政治関係のことはやめとこうと思いながら・・・まっそのうち分かることだしね。

P.S  筑紫さん、最後の総括の言葉、そのまんま中国、韓国に言ってごらん(笑)。
   10/27多事争論

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2005年10月24日 (月)

薩摩義士

 仕事で週に2回ほど長良川を南北に往復している。河口にはあの長良川河口堰がある。そこから上流へ車で15分ほどのところに千本松原と呼ばれる松並木がある。この松が植えられたのは江戸時代、薩摩藩士の手によるものである。

 江戸時代まで木曽三川が伊勢湾に流れ込む終点ではその3本の川が入り組み、少し大雨が降れば即氾濫となり住民を苦しめていた。徳川幕府はこれを治めるべく、河川工事を行うことを決定した。しかし幕府は何もせず他藩に命じるだけである。白羽の矢が立ったのは九州鹿児島は薩摩藩である。これは徳川家にとって関ヶ原の合戦で西軍につき敵に回った外様大名のため仮想敵国とみなしており、その財力を削ぐためといわれる。
 だいたい日本の中央部と九州の南端である。薩摩藩ではこれを拒否して幕府と戦おうという意見もでたらしいが、家老平田靱負(ゆきえ)の「縁もゆかりもない他藩であるが、同じ日本ではないか。美濃の人たちを助け、薩摩魂を見せよう。」という発言で幕命を承諾することになった。その責任者は当の家老平田靱負である。(明治維新ではこの薩摩と長州を中心とした勢力が幕藩体制をひっくり返したのは歴史の皮肉である。)

 この事業は大変な難工事であった。さらに再三にわたり幕府側の露骨な妨害もあったらしい。それが分かっても何も言うことができない薩摩藩士は切腹して抗議するものも出た。工事が完了するまでに割腹して果てた薩摩藩士は51名、病死者33名である。
 広範囲に及ぶこの河川工事において最も困難を極めたのは「油島の締め切り工事」である。大きな中州と中州を埋め立てて繋ぎ堤防にするのである。彼らはそれをやりとげた後、その堤防に薩摩から取り寄せた松の苗を植えた。それが現在の千本松原である。

住み慣れし 里も今更名残にて 立ちぞわずらう 美濃の大牧

家老平田靱負の辞世の句である。彼は工事完了後、全ての責任を一身に背負い切腹して果てた。
 
 千本松原には犠牲者をまつるための治水神社があり、さらに木曽三川公園が作られ観光名所ともなっている。彼らは「薩摩義士」と呼ばれ、僕が学んだ岐阜の小学校では社会科の教科書の副読本に大きく取り上げられていた。

 車を運転中ここを通るたびいつも思う。悔しかったであろうし、1日も早く故郷へ帰りたかったであろうし、つらい仕事であったと思う。今でもその堤は生きている。それも国道1号線へぶつかる道である。そのおかげで僕は仕事ができる。
 岐阜県民は彼らへの感謝の心を忘れてはならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月23日 (日)

目線

 価値観の多数決に負けた少数派は「変人」と呼ばれる。多数派はその中で競い合い、ほんの一握りの者がその山の頂点を極め 、もう少し多くの者が7合目8合目でまずまずと感じ、さらに多くの者がすそ野の方でまだ下がいることを確認し安心する。その下の者は上を見上げるだけである。これらを「勝ち組」「負け組」などと呼んだりする。
 なぜか同じ山を登りたがる人ばかりに見える。良い学校へ行き、さらに上の良い学校を出て、大きな会社へ就職する事が良い人生と誰もが皆考える。僕はそこに違和感を感じながらもそんなものだと言い聞かせていた。不況による会社の倒産などでそんな価値観には何の保証も無いことを知らされても、多くの人はそれ以外の価値観を探そうとはしない。
 自分がやりたい事は何か?その答えを知りつつもそれでは生活が出来ないと自分を納得させる。そうしていると必ず無理が出てくる。

 「変人」でいい。違う山を目指せばいいのだ。自分で自分に納得出来たとき楽になると思う。

 ライブドアの堀江社長は金で何でも解決しようとする、と一般に思われていると思う。たまたま先日ラジオに出演されているのを聞いた。彼は小学生の時、生と死について悩み、宇宙について無限なのか有限なのかなんてことに悩み、それを乗り越えるのに大変苦労したというような事を言っておられた。そんなことも考えていたんだ。僕は金勘定しかしないんだろうなと思っていたから、少し新鮮だった。

 空に見える星は「何万光年先にある。」などと簡単にいう。今、目に入るその星の光は数万年前に発せられた光である。今その星が発した光は数万年先にしか地球に届かない。そんなことを考えていると、今の悩みはやけに小さく映る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月21日 (金)

サムシング・グレート

 筑波大学名誉教授の村上和雄先生の書かれた本を読まれた方もいらっしゃると思う。
  バイオテクノロジーに関して世界でも指折りの権威であり、ヒト・レニン酵素の遺伝子暗号解読に取り組み、あのフランスのパスツール研究所と競争し勝ってしまった教授である。また日テレ系の「世界一受けたい授業」にも出演された。まさに科学の最先端に位置する先生だ。

 この先生は何冊か本を書かれており、僕が読んだのはまだ1冊だがこれを紹介する。
「人生の暗号 -あなたを変えるシグナルがある-」
 この本は遺伝子工学を専門的に書いた本ではない。先生が自分の仕事を通して人生における学びを綴ったような本だ。だが成功哲学とはちょっと違う。
 テーマは当然遺伝子のことである。先生が言うには、人との良い出会い・自分の能力の発揮・願望の成就・幸せになる、このようなことの全てが遺伝子の働きとつながっている、というのである。遺伝子はONになっているものとOFFになっているものがあるそうだ。そして全遺伝情報のうち実際に働いているのは5%~10%しかないと考えられているという。だから人生をよりよく生きるには良い遺伝子をONにし、悪い遺伝子はOFFにするようコントロールする必要があると言っている。その方法として、

①思い切って今の環境を変えてみる。
②人との出会い、機会との遭遇を大切にする。
③どんなときも明るく前向きに考える。
④感動する。
⑤感謝する
⑥世のため、人のためを考えて生きる。
などを挙げている。
スピリチュアリズムの説くところと似ている部分も多いと思う。
 
 しかしスピリチュアリズムでは地上における「悪い人生」は必ずしも失敗だとは考えないし、いわゆる難病にかかったとしても、カルマの解消であるとか、霊的真理の目覚めのきっかけと考える。そもそも「困難には感謝を」というスピリチュアリズムとは相容れないと思う。
 シルバーバーチは「自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。」と言い、自分で計画した人生の予定表がある、と言っている。そしてその予定表の枠の中でどれだけ潜在的神性を発揮するかは自分の努力次第であるとも。
 
 そうなればどうやらその「計画」は遺伝子に組み込まれているのではないかということになる。村上先生はこの著書の後半で
「この研究をしていて、つくづく不思議に思うのは、人の生命設計図の精巧さと、それを極微の世界に書き込んだのは誰かということである。人間が書いたものではないことだけは確かだ。そこから私は人間を越える創造主、神のような存在を感じざるを得ない。その存在を私はサムシング・グレートと呼んでいる。」
と綴っている。
 僕は今まで「人生の予定表」の進行とは、自分の心の成長と背後にいる霊の影響だろうと考えていた。しかしこの本はさらに肉体内の遺伝子にもその予定表が組み込まれているのではないかという要素を追加してくれた。そして反対側と見られる科学の分野から人生の予定表の仕組みを教わった事が驚きであり、最先端の科学者がご自分の研究から「神」の存在を認めざるをえないと言われることにも驚くのである。
 
 僕としては科学が神を証明する事はできないと思う。それがあるなら背理法的な手法しかないのではないかと思っている。しかし必ず科学者が神を認める方向に行くだろうとも思う。

 このサムシング・グレートの話は「Spiritual Cord」に参加されていたKOBUさんの書き込みから1度よんでみようと思っていたものです。お元気でしょうか?

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年10月20日 (木)

霊能者2人

 僕の祖母は94年に亡くなった。まだ78歳だった。家族が言うのも気が引けるが、大変出来た人で、何事においてもヒステリックになったりせず、冷静で穏和だった。田舎の農家に生まれ、小学校しか出ていなかったが賢く70を越えても、農業の論文のようなものまで書いていた。祖母はパーキンソン病で亡くなった。亡くなるまでの2年弱、家族は大変だったようだ。そのころ僕は学生で1人暮らしをしていたため詳しくは分からない。年寄りがぼけて家族が介護して疲れるという話はそう珍しい話ではない。

 それがややこしくなったのは女性霊能者が介入してきてからだった。祖母は入院していた時期もあったが、この頃からだった。叔父がある霊能者とともに活動しており、その霊能者が色々な「アドバイス」をしてきたのだった。「霊がこう言っている。」といいその通りにしないと駄目だと言い張るのだ。最後には病院から処方される薬も種類によっては「これはダメ」と言って祖母に飲ませない。担当医は効果が出ないため更に強い薬を出す。また飲ませない。こんな事が繰り返されたらしい。
 その「霊言」に振り回され、うんざりした僕の父は偶然知り合ったある霊能力のある男性に相談した。彼には一晩中話を聞いてもらったこともあったという。さらに叔父の家へ行き、代わりに話をしてもらったこともあるそうだ。その騒動も祖母の死とともに一応幕引きとなった。
 あわや霊能者同士の対決ともなりかねなかった一件だったが、実現はしなかったようだ。それはそれで見物であったろうにと不謹慎にも僕は思うのだが、そのころに自分が少しでも霊訓を読んでいたらどんな展開になったのだろうと考えたりすることもある。 

 父は今でもその男性霊能者に大変感謝している。しかし父がどれほどお礼をしようとしても、一切金を受け取らない。挙げ句の果てには「どうしても金を受け取れというなら、縁を切る。」と言い出す始末なのだ。困った父は「秋になったら家で米がとれるから、それを受け取ってくれ。」ということで、ようやく話が落ち着いた。聞くところによると、嘘か本当かは知らないが、仏門に入れば随分高い位に昇れるそうである。仏教界の組織はよく分からないし、直接本人に聞くのもどうかと思う。彼は人間界がいいと言って県営アパートでしがないサラリーマンをしている。
 女性霊能者の方にはかつて霊視してもらったこともあるが、「一回一万円」と始めに言われた。叔父は今ではその女性霊能者とは縁を切っている。
 
 目に見えない世界はむずかしい。 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年10月18日 (火)

道具

 もう一つすぴこんの話のつもりでしたが、前回の文章を読んでいて自分で気分が悪くなったので、また気が向いた時にします。

 そんなことで今回は少しお口直し(になることを願って)

 僕と同じ先生に書を習っている女性がいる。残念ながら 70歳くらいの方なのだがこの方、書は趣味でやっており本業は「琴」の先生なのである。僕はよく知らないが琴にも流派が様々ある。そして名古屋で流派を越えた演奏会があるときはその方が流派を代表して出られるそうなのだ。

 その先生が琴について面白い話をしてくださった。
 琴を始めるなら、デパートで売ってる10万やそこらのではだめで、最低でも300万は出さなくてはいけないそうだ。こだわりはじめれば際限がない事は確かにわかる。しかしとても趣味の範囲とは言えないと思うのだが。(趣味ならやるなということか・・・)
 琴にもいろんなタイプがあるそうだ。男の人のは大抵真っ黒で何の飾りもないそうだ。これはこれで渋いという。これに対しお金持ちのお嬢様がそのまま大人になった人の琴は、ピカピカの飾りを付け象牙なども付けるという。先に書いた流派を越えた演奏会では、自分の琴も素晴らしいが、そのクラスの琴がずらりと並んだ舞台はそれはそれは壮観だったと言っておられた。
 
 この先生も当然かつて師匠について琴を勉強したのだが、その師が亡くなる際に「形見分け」として師のとっておきの琴を頂いたそうである。もう今ではとても値が付けられない代物だそうだ。しかし彼女はため息混じりにこう言った。
「でもね、私はそれが弾けないのよ。」
 これまでさんざん練習し、流派の顔とさえいえる位置にまでのぼるほどの腕前を持ちながら、それでもその琴が求める技量にとどかず、師匠の音が出せないと嘆いているのだ。すごい向上心だと思った。

 書においては1つ思い当たる。もちろん筆である。
 僕は今現在いつでも使える筆は大小含め10本ほどある。しかしここ一番で書く場合の筆はたった1本しかない。使いやすいため練習でも使いすぎ、痛み始めている。だからこの筆に近いものを必死に探してきたが、なかなか思うようなものがない。これまで新しいものを買いながらがっかりしてきた。金額は結構する筆である。失敗だと何度も思った。しかしよく考えるとこれは、自分の腕前に一番フィットする筆が一番書きやすいということなのだ。だからどれほど素晴らしい筆であっても扱いきれていないということなのかもしれない。しかし使ってみなければ分からない。結構バクチなのだ。
 人が道具を選ぶのだが、道具もまた人を選ぶ。
(・・・カイザーナックルなんてのもあったな)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月17日 (月)

すぴこん 1

16日はミュウさんとともに名古屋すぴこんへ行って来た。
僕は先に着いて入っていたのだが、暫くすると「気」の分からない僕でさえ室内の恐るべき空気に気分が悪くなり、1時間に2回も外へ休憩しに行った。ミュウさんは部屋へ入る瞬間からすでに凍り付いてましたね。気持ちわる!(じゃあ行くなよ・・・)

 チャネリングをするブースが何カ所かあった。ほほーってな感じで見ていると、こんなのがあった。
「ブッダとチャネリングします。」
なんだそりゃ。
「イエスとはチャネリング出来ないんですか?」
「イエス キリストはねー人間界にいたときより進化しましてね、今ではキリスト意識としか現れないんですよ。」
意味が分からん。

 まあ面白そうなんでやってみた。
「どなたと繋がりたいですか。」
「そちらで適当にお願いします。」
というわけで、その男性は踊りながらトランス状態に入った。そして席に着いた。そのとき開いた目は確かに「別人」だった。そして開口一番
「ミカエルです。」
自分で言うか? 守護天使ミカエル君との対談はこうして始まった。

「何か質問は?」
まずい、何も考えていなかった。困った僕はあわてて
「地球人類が平和になるにはどうしたらいいですか。戦争はなかなか無くなりませんが」
なんつー質問だ、と我ながらあきれる。
「それは地球人類の総意だ。戦争をしたがる人間が多いからだ。」
そうかなあ?
「宇宙には3つの意志がある。神と自然と人間だ。しかし自然には自由意志はない。人間には自由意志がある。また情報には責任が伴う。」
どこかで聞いた言葉だ。
「ほかに質問は?」
「スピリチュアリズムの普及についてなんですが、シルバーバーチって知ってます?」
「知っている。」
おお、ミカエル君、できる!
「ではスピリチュアリズムはご存じですね?」
「知らない。何ですか?」

知らんのかい!

「日本語で訳せば霊的真理とか、心霊学とか、自然界の摂理や、宇宙の法則とかですね。」
「それで?」
「要するにですね、神が地球人類に対して・・・」

っっって、ちょっと待て!

なんで霊の方が質問して、人間の僕が答えるんだ?逆だろ!

第一金払ってるのは僕だ!

「地上で起こっていることは分からない。次元が違うためだ。だから人類がどのように名付けているかは分からない。わかるのはこの者の肉体を借りているときだけだ。」
「それは逆でしょう。下から上は分からないが、上から下はお見通しでしょう。」
でも分からないらしい。
「我々は人間達を助け、その願いを叶えようとしている。」
「人間の願望は必ずしも本人のためになるとは限らないんじゃないですか。」
「人間の価値観は色々だ(みたいな事を言ってた)。」
「僕の価値観はぶっ壊れちゃってますかねー?」
「あなた方のように、気がついた人が多く出てくることを望みます。」
先回りして、人のプライドをくすぐるような事を言ってるんじゃないでしょうか。
「我々は7つのグループに分かれて時期を変えて入れ替わり、地球を統治している。」

ほう、それで霊界からの働きかけを知らぬとな。

その前に統治する対象が把握出来ない、とさっき言ったよな・・・。
「最後に1つ質問を。」
「我々はこれでよいのでしょうか。」
というあまりにアバウトな質問をしてみた。意図としてはスピリチュアリズムに出会った人間の活動は今のままでよいのか、という意味だ。すると
「そのような質問が出ることに感謝いたします。」
なんだそりゃ。答えになってませんよ!

 まあ悪い雰囲気ではなかった。後から考えると、素直に「スピリチュアリズムは知らない」とはっきり言っちゃてるわけで、もし性悪霊なら無理して「知っている」というのではないかとも思うのだ。もっともそうすると後でボロが出るかもしれないが。また彼は丁寧に自己紹介してくれたのだが、「私が誰であるかはどうでもいいことです。大切なのは私が伝えている内容です。」なんて言ってくれると、こちらももう少し素直に質問できたんだけどな。

 そういえば最後に説教された。
「人類は信仰心を無くしてしまった。特に日本人はそうだ。神社などで祈ってみても、信仰心が無いから我々の所へは届かない。」
そうかな、滅多に無いとはいえ、信仰心は無くても他人のために真摯で純粋な祈りなら届くと思いますよ。でもミカエル君の耳には絶対に届かないね。

なんせ、次元が違いますから!!

自分でそう言ったもんな!

 ミカエル君は今日、スピリチュアリズムという素敵なものを知ったのだから、是非勉強してほしいと思う。僕は彼の成長に大きく寄与したわけだ。でも何で人間より先に霊に伝えにゃならんのだ?まあ悪い人ではなさそうだったな。こんな事を言ってると痛い目を見る。教えたつもりが別の面で教わっている事が結構あるもんだ。

 最後はお互い合掌して終わった。そのとたん彼がはっと目覚めた。今の会話はうっすらとしか憶えていないという。
「何だか難しい話をしてましたね。」
べつにー。

ブースの人からは「今度あなた方もすぴこんに出展してくださいよ」なんて言われた。何のウリもないのにどうやってやんのさ。

次回ももう一つすぴこんネタを紹介します。今回、次回は完全におちゃらけモードです。
その次からは真面目でお堅い文章に戻る(はず)つもりですのでご容赦ください。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年10月15日 (土)

賞状の文字

 今日の内容は真理かどうかという事ではなく、勝手に自分で思っていることである。
・・・・いつもそうか。
 
 賞状をじっくりご覧になったことがあるだろうか。 パソコンから印刷したものではなく、実際に毛筆で書かれたものだとよくわかる。学生時代、僕が書をやっている事を知っている知人に頼まれて、一度だけ書いたことがある。しかしそれ以後は一切書いたことはない。

 なぜか?これが大変に難しいのである。

 もう一度書く。めちゃくちゃ難しいのだ

 何が難しいか?
  まずバランスをとるのが難しい。どんな賞状でも見てもらえばすぐ分かるが、文章中の文字の大きさが違う。単純に同じマスにぴったりの大きさで書けば良さそうなものだが、そうすると全体で見たとき、目の錯覚で非常にバランスが悪く写る。画数の多い文字(漢字)は小さく見え、少ない文字(ひらがな)は大きく見える。だから漢字はひらがなより大きく書かれている。そしてこれを考慮して1行の文字数を決めなくてはならない。

 その上さらに難しい事がある。これは妥当な説明ができるか不安であるが、簡単に言うと「我が出過ぎてしまう」と言えばいいだろうか。
  賞状というのは賞を取った人を褒め讃えるためのものである。そしてその内容を「文字」で文章にしているわけである。その「文字」が自己主張して前へ出過ぎてしまうのだ。他者を讃える紙の上で、「どうだ俺の字は上手いだろう」というような鼻持ちならない文字は「公害」でしかないのである。だからといって機械の印刷(ほとんどそうだが)になると、人間の温もりというものが全く無くなってしまう。そうなるとまた味気ない。このバランスこそが難題なのだ。どんどん我を昇華(?)させ、減らしていき、受賞者を讃えることのみに存在意義を見いだす文字でないといけない。

 日展の展覧会を見に行くことがある。どれもパンチの効いたものが多い。受賞レースなのだから「オレが、オレが」となるのは当然である。それを否定するようなことを言うつもりは毛頭ない。しかし、どんな賞も受けることなく、他者を賞賛する1つのピースとしか扱われない「美しい字」もあるのである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年10月14日 (金)

布教?いや違う

「ブログ始めました!」
と昔からの友達に言ってみようか、と思うときもたまにある。

 そうすれば多分大抵の人は一度は見に来てくれるだろう。そしてコメントを書いてくれる人もいるだろう。しかしスピリチュアリズムとは言わないまでも、宗教などの意義みたいなものを考えた事のない人は、このようなブログ(別に卑下しているわけではない)にどうコメントすることができるのだろうか。

 ここがプロ野球の好きな人のブログなら
「阪神優勝しましたね。中日は終盤だめでしたね。」なんて書ける。
 サッカー好きなら
「Jリーグは大阪が優勝できるでしょうか。ところでオフサイドって何?」
 政治関連なら
「拉致は北朝鮮ではない、とHPで言い続けてきた社会党の土井たか子は、拉致被害者の家族に土下座して謝れ。」
(注:これは実際に見た内容、おっと)
なんていくらでも書ける。

 もしここにコメントをするとしたら
「遊びに来ました。でも宗教の事はよくわかりません。がんばってください。」
ぐらいのものだ。そしてその後は
「ブログで神だの霊だのって書いてたぞ。」
「うわあオウムみたい。」
「人生宗教に走ったら終わりだね。」
などと陰口を叩かれるのが関の山である。「違うんだって!」と言ってみたところで無駄である。だから前の会社にいたときも何となくそんな話題になったときは
「神様?いないと思うより、いると思っている方がいいじゃないですか。」
「死んだらすべて無くなるんじゃ、何だか寂しいですね。」
なんて事を言ってみたりした。

 でも無理をしなくても伝えざるを得ない場合がある。
 以前勤めていた会社で、うちへ出入りの業者さんがいた。彼が1週間ほど休むという。実際の仕事は彼の部下が行っていたため、業務に支障は無かった。その後彼は「ご迷惑をおかけしました。」と事務所に挨拶に来られた。そのとき事務所にはたまたま上司も後輩も全て外出しており、僕だけがデスクワークをしていた。そして彼が説明をはじめた。

彼の弟が亡くなったのである。

 それはスピリチュアリズムで最もいけないとされる亡くなり方だった。彼はそれでも毅然としていた。見事だと思った。話を聞く間、僕はずうっと悩んでいた。話すべきか、やめるべきか・・・。でも意を決して話すことにした。
「人間は死んだらどうなると思いますか?」
当然相手は面食らった。
その後僕は自分でも驚くくらい喋りまくった。1時間以上だった。死後の世界と現在の世界について僕が考えていること、生まれてくる意味、そしてシルバーバーチの存在、心の道場さんのHPで翻訳されたものがタダで読めること、なんてところまで一気に話してしまった。その間彼は「うん、うん」と相づちを打ち、食い入るように僕の話を聞いてくれた。最後には「共感できるところが少なからずあります。」と言ってくれた。彼が帰ったあと、10分ほどして上司が帰ってきた。僕は彼が挨拶に来た事を報告した。

 彼とはその後も2人になると、その話になった。だいたい向こうから話をふってくるようになってしまった。ただ僕が会社を辞める事になり、結局初回ほど濃密な時間は持てなかったが、今でも彼は「シルバーバーチの霊訓」を読んでいるはずである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月13日 (木)

チベット

  スピリチュアリズムを語る上で避けては通れない命題の一つに「再生」というテーマがある。そしてそれを国をあげて取り組んでいる所がある。それがチベットである。そのチベットの政治的指導者は言わずと知れたダライ・ラマである。

  チベットにおいてダライ・ラマは観世音菩薩の生まれ変わりであり、彼は死んでもまた国内に転生すると信じられている。そのため彼が亡くなった後、再び転生した子供を探しに高僧達が国内を駆け回り、候補者をリストアップし様々な試験を行い、最終的に次のダライ・ラマに据えるのである。その後彼にはダライ・ラマとしての教育がなされる。
 初代ダライ・ラマが生まれたのは1351年、現ダライ・ラマは実に14代目である。転生として捜索されるのはダライ・ラマだけではなく、No2であり相互に師となり弟子となるパンチェン・ラマという人物もそうであるし、その他の高僧も同じように捜索される。
 輪廻転生は仏教の思想であるが、スピリチュアリズムを受け入れている自分としては再生はあるだろうという立場である。しかし果たしてダライ・ラマの転生は全く同じ霊なのだろうか。考えられるのは
・全く同じ霊が再生を繰り返す。
・同じ類魂に属す霊が代わりに再生する。
・全く違う霊が様々な目的のため再生する。
こんなものだろうか。
 しかし、同じ霊であろうと違う霊であろうと、霊格は相当高い霊であろうと考えられる。
何せ物心つく頃から、1国の命運を託されるリーダーになる道しか、選択肢を与えられないのである。スピリチュアリズムの見地からすれば、その霊はそのような人生を納得して生まれてくるとなるのだが、あまりに酷な気がする。話がループしてしまうが、だからこそ霊格が高いともいえる。

 そのチベットは危機的状況にある。今は中国の一部とされチベット自治区などと呼ばれるが、中国がどう体裁を取り繕おうと、これは侵略である。この侵略により虐殺・餓死によるチベット人の死者は128万人にのぼるそうである。ダライ・ラマはインドへ亡命し各国を回りながらチベットの惨状を訴えている。
中国という国は台湾も中国領であると言う、その上日本の沖縄まで中国領だなどと言っている。

 僕は書に親しむ関係上その分野において、中国に対し憧憬の思いはある。しかしこの国を例えるならドラえもんの「ジャイアン」みたいな国である。それに対し、日本は見事に「のび太くん」になり下がっている。基本的に政治関連の事柄はあまり書くつもりはないのだが、何だか書いてしまった。

 チベットにはナムツォという素晴らしく美しい湖がある。ここは天の湖とも神の湖ともいわれる。一度行ってみたい場所である。

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2005年10月11日 (火)

宗教団体

 先日訪問者があった。どうもうさんくさい連中が家を回っていると弟が知らせにきてくれた。弟は話しも聞かずに断ったらしいが、すぐまた隣の家へ行ったのを見て、わざわざ教えてくれたのだ。手ぐすね引いて待っていると、何も知らずに彼は来た。

  NGOの団体だという。拍子抜けしたが、その若いお兄さんの話を聞いてみることにした。
 彼はカンボジアの地雷撤去のため、ハンカチを販売して資金にしているという。ふーん。
というわけで少し質問した。
「収支決算報告書は?」
「これです。」彼はパンフレットに載せてある小さくコピーしたものを見せた。
「集めたお金はどうやって運ぶの?」
「持っていきます。」
「??? 何で?銀行に振り込めばいいんじゃないですか?」
「・・・・・」
「だいたい日本の紙幣を直接現地に持っていっても仕方ないでしょ。せめてドルに替えるなら分かるけど、第一人間1人分の旅費がかかるでしょうが。」
「・・・・・」
「毎日こんなことしてるんですか?」
「いえ今日は会社を休んで訪問してます。」
「あなた一人で1日にいくら集まるんですか?」
「・・・言わないといけませんか?」
顔には出さなかったが、僕はこのセリフに大爆笑してしまっていた。どうやら僕は想定問答集にない質問ばかりしていたらしい。
「1日20万から5千円くらい・・・ですね。」
思わず「僕も一緒にやらせてもらえませんか?」と言いかけたが、リセイをフルカイテンさせたところ、20万はありえんだろ、という結論になり
「あなたね、もし本気でカンボジアがどうのと思っているなら、休みの日に土木作業のバイトでもすれば?内容によっては1日1万円近くはもらえますよ。そのほうが効率的に貯まると思いますよ。」
「・・・・・どうもお邪魔しました。」
彼は次の家へと向かって行った。

 この団体の名は「SHINZEN」という。
あとで調べてみたのだが、なんと統一教会の下部組織であり、こんなところにもリストアップされていた。あらかじめ知っていれば、対応も違ったものになったと思うのだが。

 人間の行動基準は基本的に「善・悪」と「損・得」が大きなウェイトを占めると思う。ところが宗教団体にはまり込んでしまうとそれが吹っ飛んでしまう。教祖の言いなりになって自分で考える事をしなくなってしまう。

 さっきのお兄さん、もう一度僕と話し合ってみないか?別に僕の考えを押しつけるつもりはないよ。ただあなたが崇拝しているであろう教祖様もあなたとほとんど変わらない人間だよ。いくらお金を集めて上納してもあなたが天国に行ける保証はどこにもないのだ。

         ブラウン管の向こう側、カッコつけた騎兵隊が
         インディアンを撃ち倒した
         ピカピカに光った銃で、できれば僕の憂鬱を
         撃ち倒してくれればよかったのに

         神様に賄賂を送り、天国へのパスポートを
         ねだるなんて本気なのか
         誠実さのかけらもなく、笑っている奴がいるよ
         隠しているその手を見せてみろよ
                                          『青空』(ブルー・ハーツ)より

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月10日 (月)

ニューズレターを読む

心の道場さんから新たにニューズレターがネットに載せられたので読んでみる。その内容について意見を述べるわけではないが、ただね、その前半部分は、、、、、僕が考えていて、いずれ書こうと思っていて、おまけにタイトルにまでした内容がそのままなわけで、なんとも、、、どう表現していいか分からないこの感情。

今日は寝ます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月 9日 (日)

書である

 このブログ開始時にも、よそのサイトでも少し書いたりしたが、僕は書道をやってきた。
そして今も続けている。社会人になってからはなかなか時間もままならないが、細々とやってきた。今回少しお披露目。

 僕は気や波動が分かるわけで はない。ミュウさんによれば波動は相対的に感じられるという。つまり自分が基準でそれより上か下かであるらしい。

 こんな僕の書はどうか。これを見て僕より上手い多くの方はまだまだだと思われるであろうし、書の初心者の方は上手いと思われるかもしれない。また興味のない方は何が面白いのかと思われるだろう。そんなことを考えたりした。

 書をやっているとはいえ、別に自分のオリジナルを創作しているわけではない。師匠に手本を書いてもらってそれを見、真似て書いているだけのことである。とはいえそう簡単にいくわけでもなく、部分的に半紙に書き、練習し続けるのである。これは毎年1回名古屋で開催しているグループ展示会に出したもので、締め切り前1ヶ月の週末はほとんどこれを書いていた。

 さて、芸事というものは偉大な先生に弟子入りしたとしても、またすばらしい手本を手にしたからといっても、別に当人の腕は変わらない。

当たり前である。

上手くなるには自分が練習して、練習して、練習しまくるしかないのである。

tou1 

この写真の書は漢詩である。陶 淵明という晋(三国志の時代の後)の人で「帰園田居(園田の居に帰る)」という漢詩である。彼は公務員をしていたものの自然を愛する気持ちが強く、脱サラして故郷で隠棲してしまった人である。誰かさんと同じ心境である。別に隠居するわけではないが。

| | コメント (6) | トラックバック (2)

2005年10月 8日 (土)

タイトルについて

korube1 この「優しさと強さと」というタイトルはかつて読んだ本の名前をそのままいただいた。

20年以上昔の話。今でも憶えているが、中学1年のとき何気なく新聞の新刊本の広告が目に入った。
「アウシュビッツのコルベ神父  優しさと強さと」
まだ基本的な世界史も全く知らなかったが、どういうわけかこの本が気になって仕方がなく、そのまま親に頼んで本屋まで連れて行ってもらい買ってもらったのである。最後には読書感想文まで書いてしまった。

読後そのまま本棚にしまわれていたため背表紙のタイトルはほとんど読めない。ただ今でも手元にあるのは驚きだ。

さて読書の秋だ。再度「シルバーバーチ」を読むもよし、読みかけの「個人的存在の彼方」を読み進めるもよし、そして利他行為を文字通り命を投げ出して実践したこの人の本を読み返すのもまたよしだね。

なおタイトルを筆で書くのは、うーんどうなるかな。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2005年10月 7日 (金)

飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ

先ほどフジテレビで予告をやっていた。相当昔テレビで見た。映画の放送だったかドラマだったかでやっていた。悲しい実話だ。
 今回は稲垣吾郎氏が主演である。見てみようかな。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

ブログ開始

2003年の春にスピリチュアリズムに出会った。

子供の頃から抱いていた「人間は何のために生まれてくるのか?」という疑問に対し、ついに答えを得たと思えた瞬間だった。

今後スピリチュアリズムに関することをメインにし、書道、剣道についての内容も交えながら気がついた事を書いていこうと思う。

| | コメント (14) | トラックバック (0)

トップページ | 2005年11月 »