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2005年12月31日 (土)

大晦日

 今年は今日で終わりーー。

今日ようやく仕事納め、ふーーーー。自営は大変なのだ。

 さて、今年このブログを開設しちょこちょこと書き進めてきましたが、おつきあい下さいました皆様、本当にありがとうございました。
 
 現在ブログの柱は、①スピ・②書・③売国左○を笑う事、としています。今後は何を書くか分かりませんが思いつくままやっていくつもりです。

 皆様よいお年をお迎えください。また来年お会いしましょう。

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2005年12月30日 (金)

国別常識(その3)

 また書いちゃうもんねー。

 韓国という国は面白い。

 昔の僕はどうだったかと言えば、韓国という国には全く関心が無かった。そして日韓共催サッカーワールドカップから「お隣さんとは仲良くしなきゃね。」と思うようになった。その後少しづつ韓国を勉強し始めた。そして嫌悪した。それでも色々読んだ。ついにはあまりにも面白すぎて、もはや目をそらすことができない今日この頃である。

少し古いけど、朝鮮日報(キムチメーカーが政府に対しおかんむり)

 簡単に書けば、「寄生虫の卵入りキムチ」の発覚によりキムチの販売量が激減した(特に日本向け)。メーカーとしてはこの業績不振は、政府が発表した事が原因であり、政府は産業保護のための対策を打ち出さなくてはならない。これが聞き入れられないなら損害賠償を求めて訴訟をおこすかも!

なのだそうで、ほとんどイスから崩れ落ちそうになった。日本の常識からすれば絶対有り得ない事態だと思う。あのなあ、根本的な原因はどこだい?あんたらがとんでもない商品作ったからとちゃうんかい?ギャグではないんだよな。どうしてこれを人のせいに出来るのか、まことに不思議な社会である。

(参考までに)あんた何様?日記 様 (ありがとうございます)

なお、素敵な韓国のデータもリンクさせていただきました。管理人様ありがとうございます。

素敵な韓国のデータ 1
素敵な韓国のデータ 2

果たしてこれは本当なのか?うーーーーーん、また霊格が一段階下がったような・・・
(2の方で正月は笑い続けることができるでしょう。)

しかし、「誠意を持って話せば必ず分かってくれる。」というこの日本人的思考は素敵だと思うのだが、それも相手次第だということを言わずにはいられない。彼らは自分さえよければそれでよいらしい。

なお2005年のベストヒット : 韓国人につけるクスリ   最高です。

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2005年12月29日 (木)

書の芸術性

 書は芸術か?

 この論争は古くから長い間あったらしい。詳しくは知らないが、書の芸術性の確立について尽力していただいた先人には深く感謝している。ただ今は他人がどう考えるかはどうでもよい。僕が書という芸術をどう考えるかである。

 芸術で無いと言っていた側から見ると、「書」の作品はあまりに短時間でできるからという理由があるらしい。制作するものの大きさにもよるが、絵画を描くならば何ヶ月もかかる場合もあるだろう。彫刻にしても1日2日で出来る物ではない。

と・こ・ろ・が

 確かに書の作品は文字数にもよるが、掛け軸にする四文字熟語なら1枚書くにの十秒前後であろう。般若心経を書くならば確かに時間がかかるがそれでも丸1日もかかっていては恐らく、ろくなものは出来ないであろう。逆に時間をかけていてはダメなのだ。キレが必要なのである。

 書は絵画と同様の目線で見る芸術とは違うのではないか?何度かそう思った事がある。なんか違うよなー、そう思い続けて僕が出した結論。

       「書は目で聴く音楽である。」

 あれは音楽のソロ演奏を聴いているのと同じだと思う。点を書き、縦横に線を引き、左右に払う。技術の連続である。そして一度致命的な失敗をしたらその紙での演奏は「失敗」である。修正はきかない。「今のは無かった事にして」はあり得ない。
 違う点を挙げればその演奏をそのまま紙面上に保存していける事。部分演奏と全演奏をいっぺんに見ることができる事などか。  

 要するに一発勝負の「演技」と言えるのではなかろうか。その一度のために延々訓練を続けるのだ。またこれは「料理」と言ってもいいかもしれない。これもまた技術、タイミングの連続であると思う。

目で「見る」事にとらわれるからおかしくなる。耳で「聴く」事も同じだろう。

やはり感じるのが一番か?

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2005年12月25日 (日)

川の流れに乗って

 人生は修行である・・・・・そうな。

 それを前提に書く。
  自分で何となく思っているだけなのだが、「人間」つーのは川の中の石みたいなものかなあと思う時がある。

 山からごつごつした石が川へ転げ落ちる。それがはじまりである。石は普段の川の流れでは動かない。しかし大雨が降り水量が増えるとそれに伴い、石は動かされる。すると一転がりする。それまで水にしか触れていなかった箇所が他の石に接触する、もしくは尖った角が他の石にぶつかる。当然、面は削れる。角については特に力がかかるため角そのものが破損する。それが繰り返されていくことによって角張った石は少しづつ球体に近づいていく。石は何十年、何百年かけて下流へ運ばれていく。海に近い河口付近にあるのは綺麗な丸い石ばかりである。最後には全て海へ運ばれサラサラの砂になる。

 その石は自分自身であり、ぶつかる一つ一つの岩、石が他人であり、ぶつかることで削られる角は自分の未熟な部分であり、それは逆に他人の未熟を指摘するのに必要な角でもあり、滑らかな部分同士が接触するときもあるからそれは一服する時期であり、・・・であり・・・であり・・・であり・・・などとえんえん考えてしまうのである。

 割れたらどうするのかとか、粉々になった部分はどうなのかとか、砂になったらどれが自分かとか、突っ込まれても返答のしようもないが、全部ひっくるめて自分だよな。

 そしてその川、水の流れが「法則」と言えるか・・・?とも思ったりして。

      ちょっとやりすぎか?

 
 でも、人生にも流れというものがあると思う。何となくすんなり行ってしまうとき、いくらどうあがいてもうまく行かないとき。流れに乗るか逆らうか、逆らっているとわかりつつもそれが止められない、なんて時もある。

 角が取れて綺麗に丸くなったように見えても、それを見る倍率を変えればまだ角だらけだと分かる。しかし普通の河川ではそれ以上研磨できない。砂になってしまっても同じこと。そうするともっと違う方法で磨かれるために違う環境へ行くのだろうか。

 進歩も同じ要領なのか?とも思ったりする。

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2005年12月23日 (金)

紹介

 突然ですが、以前にまるもさんが紹介してくださった合気道の植芝盛平氏について「アヴァンギャルド精神世界」の湖南さんが取り上げていらっしゃるので、ご紹介します。

アヴァンギャルド精神世界さん

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国別常識(その2)

 このところの大雪で仕事は予定通りに行かず、その前に雪かきでヘロヘロである。ここまで降ると何だか笑ってしまいそうになる。昨夜で50cm積もった。

 笑いと言えば「M-1」だが、僕はお笑いにあまり興味がないので、どんなコンビが今一番うけているのかよく知らない。かつてウド鈴木が韓国のお笑い番組に出演して苦労していたのをテレビで見たことがある。韓国の笑いの傾向は全く分からないが、正直なところ僕自身には韓国そのものが笑いの対象である。

 少し前になるが、違法操業していた韓国の漁船を海上保安庁が追跡した。その後韓国からこのような違法操業の捜査は韓国でやらせろと言ってきたそうだ。

         ほとんど治外法権とちゃいますか?

 参考:厳選!韓国情報様 (ありがとうございます) 

 ちなみに、こんなスレッドがある。まだ半分までしか読んでいないのでその範囲内の話だが、かの国の常識には舌を巻くばかりである。中国も同じようなものだと思える。が、民主化されたら少しは変わるだろうか。韓国は一応民主国家であり、法治国家のはずだが。もう笑えて仕方がない。平凡な韓国人の普通の日常会話だけで爆笑の渦である。だから日本のお笑い界は韓国からのM-1への参戦を絶対に認めてはならない。これが今回の結論である!(ないよな)  
 

 これでも僕には在日朝鮮人の友人もいるし、書の師匠は中国人である。結局、国やその社会と1個人は全く別物である。しかしまあ、中華思想は全くろくでもないが、小中華思想というものはもっと呆れたものである。

 プライドは高いが誇りは無いように見えるのは僕だけか?

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2005年12月20日 (火)

耐震強度偽装問題をあばく人

 このところのマンションの耐震強度偽装問題でこちらのブログを読みっぱなしである。

きっこさんのブログ

なななななな、なんでそんなこと知ってるの?と声をあげそうになりながら読んでいる。たまに人気ブログランキングに投票させてもらったりするのだが、その数たるや2位とは文字通り1桁違う、ぶっちぎりの1位である。誰も知らない情報、知っていてもメディアが報道できない情報もあるらしい。どんどん書いちゃってほしいものだ。

 

 ちなみに僕のイメージの悪さランキングでは

1位   内河 健

1位タイ 小嶋 進

1.1位 篠塚 明

となる。それにしてもこの事件の根は深そうだ。今日各方面に捜査の手が入った。果たしてどこまで踏み込めるのだろうか。

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2005年12月18日 (日)

利己or利他

 長男の僕には弟が二人おり、三男には9ヶ月の男の子がいる。僕の甥であり、両親にとっては可愛くて仕方のない孫である。

「あの子にクリスマスプレゼントを買おうと思うんだけど、どんなおもちゃがいいと思う?」

母がそう聞くので言ってしまった。

「い・ら・な・い。

どんなおもちゃを貰っても、本人は意味も目的も分からない。そんなものは周囲の人間の自己満足に過ぎない。服を一枚でも多く買ってやった方がよほど意味がある。」

「そうねえ。」

 大人同士でも無いとは言えないだろう。

 司馬遼太郎は「竜馬が行く」の中で、自分が考える「相手への善意」を相手が素直に受けてくれないと、腹が立ってきてしまう人を登場させている。

 相手のためだと考えていることにも実は自分のためである割合が多くあった、なんて事もある。いやそれより100%相手のためだけとか、100%自分だけのためというのは無いのだろう思う。

自分なりに「相手のためだ」と考えること自体尊いはず。問題はその純度ということかな?動機は再度見直すべきなのかもしれない。

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2005年12月14日 (水)

独り言

?何が最高か?誰が1番か?

さて

自分にとって何が受け入れられる摂理か?何が納得できる真理か?

だと思うのだが。

誰が言ったかではなく、何を言ったか

のはず。

ところで、こんな事を書くと反発も来そうだが

スピリチュアリズムを目指して生きるのは果たして正解か?

愚考するに人間は常に地球の上で生活しているが、地球に向かって歩いているわけではない・・・・・。

「スピリチュアリズムと共に」というHPを拝見していたことがある。

この表現が僕にはしっくりくる。もっと言えばスピリチュアリズムというより、自然界の法則と言ってしまってもいいかも。言葉は難しい。

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地獄の沙汰も金しだい~♪

 ふふふ、今日は吠えるぞ。(ちょびっとね)

 時々、書をやっていることで作品を制作する事以外に何か使えないかと考える。すぐ思いつくのは、そろそろ書かねばならない年賀状である。その他に何かないか・・・と考えていたら、あった!見つけた! 今年思いついた。

 そう! 「退職願」である!

 ところが本人の期待もむなしく、「所定の様式に必要事項を書いてください。」という注意書きとともに、会社で決められた形の退職届が有給消化中の僕のところへ送られてきた。せっかく今までやってきたのに。(そうじゃない!!)

 他にはないだろうか、と思っていたら一つ思い出した。

 実は昨年僕は叔母を亡くした。父の姉にあたるが、まだ60代だった。せっかくだから何か役に立てばと思い、シルバーバーチの霊訓を1冊持参したが結局何もできずじまいだった。近い親戚であるし交流も深かった一家だったが、所詮違う家。家族の中へは入っていけない。「気持ちは分かるよ。」などと言うのは、実は何もわかっちゃいないのではないかと思う。だから何も言えない。

「おばあちゃんは天国に行ったんだよね。」

まだ4歳くらいの叔母の孫(従兄弟の娘)が僕に聞くので

「そうそう、間違いないよ。」

そう答えたのみだった。

 いきなりしんみりしたが、話はこれ。

戒名である。

位牌はきっちり彫って作られるはずだが、木の板に手書きで書かれる物もある。叔母の戒名が書かれたものを見た時、そのあまりに下手な字にあきれ返ってしまった。小学生でももっとましな字を書くだろうに!

だいたい現代の仏教は葬式仏教である。自分の時には葬式いらない、法事もいらないという気持ちだが、ただそれをしないことによって後に残る家族がいらぬ心配をしないとも限らないので、まあやっといてもらうか、ぐらいに考えている。

しかし僕のまわりの多くの人は、きちんと葬式をし、法事をし、決められたことをしっかりこなさないと死者が成仏しないと考えている。もしくは考えずにやっている。そこにつけ込んでいるのが今の坊主である。檀家制度によりほぼ不動の「顧客」をもちながら、その顧客へ渡す唯一の「商品」である位牌の文字があれでは、家族もやるせない思いであろう。文字通り仏さんもうかばれまいに、などと冗談にもならないことを考える。

さらに言わせてもらうが

戒名料  とは何だ?

調べたところ、40万から200万とある。  

 戒名料 (これが全てとは思わないが)

何だとー!このやろー!こんな話、早く教えろー、僕も出家させろー!

あのさあ、「院」が付くと格が高いとか「信士」だと普通だとか、変でしょ。それにあの字で40万とる?いやそうでなくて制度自体の話だな。勿論その後のアフターケアなどもあるのだろうが、おたくら「自分が仏さんを成仏させてやっている」とでも言いたいわけ?

 もちろんすばらしいお坊さんも多い。以前に書いた英語塾の先生などは僕が直接知る限り最高の坊さんだった。この先生になら僕の戒名を決めてもらってもよかったな。

 我が家は臨済宗妙心寺派なる宗教団体の末端らしいのだが、たまに会報が来る。

「死者が閻魔様の前へ出て戒名を呼ばれるが、最近は生前それを決めていないため本人が知らない。だからあの世へ行って右往左往する人が多い。生きているうちに戒名を決めておきましょう。」

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                      (実はこれ一回使ってみたくてさあ)

お前ら見てきたのか?

 実は自分で自分の戒名はどんなのがいいだろうかと考えたりもし、親にもこう言っている。

「戒名なんぞ自分で考えときな。いらん金払うぐらいなら生きている間にその金でうまい物を食べればいい。

位牌?

不肖 私めが死に水同様、筆もとらせていただきます。ご不満か?」

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2005年12月11日 (日)

霊言あれこれ

 世の中に霊言と呼ばれる物は多い。シルバーバーチは今のところ“本物”の筆頭に挙げられるだろうが、三大霊訓以下どこまでが信頼に足るのかはよくわからない。

 さて、こんなHPがある。あえてリンクはしないがHP名は

「毎日神が語りかけるHP」

という。そのまま検索すれば一発で出る。

 トップページが出ても、どこから見れば良いのか非常に分かりづらいが、真ん中に「毎日の神のメッセージ」がある。これを読んで僕には疑問が多くわく。非常に曖昧というか、大雑把な言葉の羅列と感じる。左上に「神語録」というものがある。また対話形式の記録もあるが、シルバーバーチを読まれた方はどう感じるだろうか。

 なお「愛口座」というものがあり、「愛は金であり、金は力だ、愛(金)を流せ」というわけで、

「うちで口座を作ったから、そこへ振り込め」と書いてある。

何をおっしゃいます?

 途中で僕なりの結論を書いてしまうが、「神」が己を「神」だと言う場合、それは自ら自分は「神」ではないという証明書を提示したようなものであると思う。「神」が「神」であるが故に一個人に特別に語りかけることは絶対にあり得ないだろう。これが自らを「霊界で修行中の霊」とか「肉体を持たないだけの存在」というならば、まだその言葉には耳を傾ける余地はあると思うがさてさて・・・。思い切り善意で受け取れば、どこかの神話の神なのかもしれないが読んでいてもそうとは思えない。

 この団体の存在を知ったのは、前々回のすぴこんへ行ったときにブースを出店していたので話をしたのが最初だ。そこにこちらの「か・み・さ・ま」の言葉を集めた本があったのだが、読むうちに疑問だらけになった。それをそのままぶつけてみたが、ほとんど答えは得られなかった。別に意地の悪いことを言ったつもりは無いし、だいたい議論はあまり得意とは言えないので「こことここは矛盾していないか?」というものがほとんどだった。客は僕一人に対し、ブースの人間が入れ替わり立ち替わり話をしに来たが、全員お帰りいただくことになり、最後は責任者の男性が出てきて話をしてみたが、

「全てはアダムとイブが原因なんですよ!」

としか言わない。最後は「もう閉店の時間ですから」と言われ話は終了。つまるところ、

「神がそう言ったからそうなんだ。そう信じれば良いのだ。」

というところか。僕は相当イヤな客だったろうな。

 こんな事を書いていると人間が悪くなったような気もする。ま、どんな神を信じるのも個人の勝手ではある。そういう僕も仏教が好きで、お経の解説本を読んだりしているわけだから。

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2005年12月10日 (土)

虹の色は何色?

どうでもいい話なのだが、母親と話をしたとき、

「虹はどうしてできるの?」

と聞かれ、一瞬窮した。

「光が水滴を通る時、プリズムの要領で光が分解されるんじゃなかったっけ・・・」

改めて言われて、あまり自信が無かったので調べてみた。

Wikipedia

知っているつもりの事にも知らないことはいくらでもあるものだ。色は7色で当たり前だと思っていたが、他の国では6色だったりあれを2色と捉えるところもあるそうで、少しびっくりである。

 よく読んでみれば、ニュートンが実験して「7色」と記述したのが始まりで、日本ではそれをそのまま取り入れたため定着したらしいとのこと。さらによく考えてみれば6色でも7色でもよいが、その境界はきっちり分かれているわけではない。つまりやろうと思えばいくらでも細分化できる。

 これを書いている途中で思い出した。「永遠の大道」の中で「旅する魂がたどる行程」の説明で「1物質界 2、3、・・・7超越界」とある。注釈の中で界層の数え方について実はいくつと数えられるものではなく、7界説ではそもそも中間界をカウントしているのは不自然であるといい、西洋人にとっては「7」が良い数字でありこだわりなのだろうという見解が示されている。

 たぶんこの虹の色の数え方もそれにならったのではないか、と勝手に思ったりした。

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2005年12月 8日 (木)

あの頃の自分

 またもや恥ずかしげも無くマイフォトに書の画像を追加しました。

ただし今回は・・・・・前回2点に比べればずいぶんヘタです。

もう一度書きます。ぜんっぜん、いけてません。

それでもあえて載せます。説明は後ほど。

まず物は何かと言いますと、三国志をご存知の方は多いでしょう。その中で「蜀」の国の丞相であった、諸葛亮が書いた「出師の表(前)」です。(もちろん臨書です)

*  *  *  *  *  *  *  *  * 

前出師の表

臣亮もうす。

先帝、創業いまだ半ばならずして、中道に崩姐せり。今天下三分し益州疲弊す。これ誠に危急存亡の秋(とき)なり。・・・・・

(吉川英治 「三国志」より引用)

長いので冒頭部分のみです。(著作権は諸葛亮にあると思われますが、詳細不明です。)

時間のある方は一度お読みになるのもよろしいかと。華美な表現は少なく、私心なく、切々と訴えかけます。

名文といわれます。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  

これを書いたのは二十歳か二一歳か、そのころです。半紙を横にして15枚繋いで書きました。これまで書に縁の薄かった方から見ればそこそこに見えるかもしれませんが、書いた本人が見ますと情けなくてため息が出てしまいます。その程度の代物です。何が気に入らないかといえば、全部なのですが、特に

「俺って、うまいじゃーん。」 

なんて気分で書いていたその頃を思い出すわけです。しかし「ヘタでした。アホでした。」そう今は思える。これが大事だと思うのです。それが少しは上手くなった、ちょっとは成長したという証なわけです。ですから今後修練を積んだ暁には、ギャラリーでいい気になって公開した先の書についても同様に「情けない物」を作ったものだ、という感想が生まれなければなりません。段位だの師範だのといった肩書きはどうでもよいのです。(大した物は持ってないし)

 翻ってこのブログで勝手気儘な事を書いています。上記の理屈で言えば将来読み返した時、多少なりとも「くだらない事を書いていた時もあったな」とか「分かった気になってよくここまで書いたな」という感想が持てるようになっていないといけないと思うわけです。もちろん過去に書いた物全てを否定するような場合はアタマがいかれていると思います。では今が正常だと証明できるのかと言われるとまた困りますが、価値観が違う人から見れば、とっくに「どうかしている」と見られているのだろうな、と常々考えています。

 霊性進化に比べれば書の上達などは光の速さでしょう。同じ土俵で語れるようなものではないことは百も承知です。しかしながらこのブログにおいて僕は、将来読み返すであろう「出師の表」を書いているつもりです。

 なお以前に「書をやるなら書いた物を保存しておくといいですよ。」と書いた手前自分も出すべきだろうと思っておりましたので、その意味も込めてアップしてみました。

さて、今回はかっこつけすぎましたね。本日はこれまで!

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2005年12月 7日 (水)

創価学会

このところ大騒ぎになっているマンションの構造計算書の偽造問題だが、ちまちまネットでしらべていたところ、こんなことが出ていた。

姉歯建築士一家は全員、創価学会会員だそうで、

ヒューザー社員の約8割が創価学会会員だそうで

これはいかんじゃないか、と怒っている国土交通省の北側大臣は言うまでもなく公明党からの入閣であるわけで。

この側面から見れば、みな繋がっている。

創価学会についてはまだ勉強不足なのだが、サラリーマン時代に関連会社の担当者がこれだった。仕事場にも「学会誌」を持ってきて読んでいた。少しそれらしい話をしたところ、

「今度僕たちの会合に来ませんか?」

と熱烈なラブコールを受けた。

「僕のところは禅宗ですから・・・。(勘弁してくれよ)」

「日蓮の教えはうちが正しいんです!仏教の究極の教えは法華経です!」

君はその法華経を自分で読解したのかい?

少なくとも人に強要しなさんな。

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2005年12月 6日 (火)

英語教育

 

 近所に英語塾がある。通りかかったときちょうど授業が終了して生徒が出てきた。まだ小学校の低学年くらいだろうか。これが何だか引っかかる。

 以前から考えていたのだが、義務教育で英語を勉強するのは中学校からである。もちろんその前から勉強しておけば中学での授業が楽であろうし、その分他の教科の勉強が余分にできることになるわけで、小学生の英語教育を頭から否定するつもりは全く無い。ただ英語を学ぶより先に「日本語」をもっとしっかり勉強すべきではないのだろうか。当然両方完璧にできるに越したことは無い。しかし英単語を一つ覚えるより漢字熟語を覚える方が先決だと思うのだ。

 国際社会なんて言葉は昔から言われている。とっくにカビが生えていそうなものだ。当然「国際人」という単語も出てくる。僕はこの「国際人」の条件とは別に英語がペラペラの人や複数の言語を自在に操る人だとは思わない。僕にとっての「国際人」とは自国がどのような国であり、どんな文化を持ち、どのような歴史の上に成り立っている国かということを堂々と語れる人間だと思う。例えば日本で外国人にあったとする。一通りの自己紹介が済んだら僕ならまず聞いてみたい

「あなたの国はどんな国ですか?」と

アメリカや韓国などなら情報も多い。しかしアフリカの内陸部で名前ぐらいしかしらない国であれば当然出てくる質問だと思う。そのとき

I don’t know.(知らない)

などと答えられたらがっくりくると思う。

 英語なんぞその気になればいつでも勉強できる。日本人として日本に生まれたのならば、まず日本語を勉強しその上で日本を勉強し、そして外国語を勉強するべきではないだろうか。

 僕は中学生になり英語塾へ通った。その先生は非常に変わった先生だった。あるときこう言った。

「英語を勉強する目的は何だか分かっているか?外国を知るためだよ。」

この先生についてはいくらでも書くことがある。英語教員を定年退職して塾をはじめた人だった。そもそも寺の住職であった。塾では正座。(これを寺子屋と呼ばずに何と呼ぶ?)2時間の授業のうち半分は雑談。それも忠臣蔵だの国定忠治だの戦時中の話だの英語に全く関係のない話ばかりだった。そのわりにポイントが的確でそこへ通った生徒は皆英語の成績は良かった。英語の教師とはいえ漢字の知識もものすごく、この地方でも名刹といわれる寺の住職が本を出すにあたり、漢字の間違いが無いかのチェックをこの先生に頼みに来ていた。

 英語は目的ではなく手段だと思う。

 ついでと言っては何だが、映画の字幕翻訳で有名な戸田奈津子さん。テレビだったと思うが言っておられたこと。(うろ覚えですが)

「私のところにはね、よくこういうお嬢さんがいらっしゃるのですよ。

『私はずっと海外に住んでいた帰国子女です、英語は完璧に話せます。私にも映画の字幕翻訳をやらせてください。』

そういう方にはこういいます。

『あなたは日本語が完璧にできますか?』と。」

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2005年12月 5日 (月)

幕末の人々

僕は歴史小説が好きで今までいろんなものを読んできた。時代的に一番好きなのは

「幕末」である。

読んだ本の中では司馬遼太郎が一番多いが、「司馬史観」は脇へ置いておく。司馬遼太郎は時代の中の動乱期に焦点をあてたものが多い。日本史上の動乱期といえば、源平、南北朝、戦国、幕末、(昭和も入るが)などだと思うが、前の三時代は日本国内の話(日本国という意識は薄かったかもしれない)。幕末は日本と海外との関係が重要になってくる。この時代になって下級武士や庶民もようやく日本はどうすべきかという事を考え始めたのかなと思う。

自分の領土を広げるといった単純明快な動機ではなく、日本を守るにはどうしたらよいのかということが基準になっているところが違うと思う。(もちろん大名のお家大事というのもそう言えなくもないが)金儲けとか、名を上げるとかそんなものは度外視して日本の将来を憂え、行動している。常に暗殺される危険にさらされながら。

薩摩藩や長州藩は幕府を倒して自分たちがイニシアチブを取りたい、という思いもあったようだが、当時の日本の政治体制では欧米の植民地となるのは必至であったため、開国した幕府を糾弾しながらも何とか早く近代化しなくてはならないと考えていたはずだ。近隣のアジアを見ればすぐ分かるが、ヨーロッパ諸国が我先にと植民地化していった。片手に銃を片手にバイブルを持ちながら。そんな混迷の時代に一番大局的な「眼」を持っていたのは勝海舟と坂本竜馬、少し前だと吉田松陰などがあげられるのではないだろうか。

(余談になるが。小学校5年の時、図書館で伝記の「勝海舟」を借りた。帰宅前のHRで担任がそれを見つけ、

「すばらしい!是非読め!その人はすごいぞ!」

僕は何がなんだかさっぱり分からなかった。信長、秀吉・・・の続きで侍の伝記だと思って借りていましたから。彼が凄いと分かったのはしばらく後になってからだったな。)

幕末で一番好きなのはやはり坂本竜馬だろうか。桂小五郎、西郷隆盛、大久保利通(現外相・麻生太郎氏のひいひい(?)おじいちゃん)などもいい。もちろん勝海舟、榎本武明なんかはもっと詳しく読んでみたいと思う。

坂本竜馬はいいねえ。最近の研究では薩長同盟への関与はそれほど大きくなかったのではないか、なんて事をNHKでやっていたが、それにしてもどこにも所属せずに成し遂げたその仕事はあまりに偉大だと思う。

シルバーバーチは「人間が地上に生まれて何をなすべきか、魂は分かっています。」と言っていたはずだ。この幕末の時代に勤皇・佐幕を問わず、何か使命感を感じながら行動した人は多かったのではないかと思う。霊訓を引き合いに出すまでもなく、

「天がこの国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命が終わったとき惜しげもなく天へ召しかえした。」司馬遼太郎の「竜馬が行く」より  (・・・・・・こういう引用は問題ないのかな。)

無神論者と思われる司馬遼太郎氏がそう書いている。

これ当たっているんじゃないの?

幕末に活躍した人物についてこれからも書きたいと思う。

 なお読んだ本は歴史小説が大半であるため、著者のイメージがそのまま入ってくることは否めません
。セリフもほとんど著者が作っているようなものだから、学問的な考察とはズレが生じる部分もあるとは思いますが、その辺はご容赦よろしく。

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2005年12月 4日 (日)

対応より対策を求む

 近所に新たに開通した道路がある。

 やっぱりな・・・誰もが思ったはずだ。交通事故である。

 開通した道が優先になり、交差していてそれまで優先だった方の道路が一時停止することになった。たまに通る人はよく分かっていない。知っている人でも慣れで通過してしまう。僕が実際に見た限り2週間で2件あった。その他にもあったのではないだろうか。

 実はその地点から1km程度しか離れていない場所で同じ事があった。状況はほぼ同じ。旧道に交差する格好で道路が建設されたが優先道路は相変わらず旧道だった。さらに民家が密集し見通しも悪く、ここは県下有数の交通事故多発箇所となった。何を隠そう、7年前に僕もここで事故に遭った。優先の旧道を時速40kmで走っていた。そこへ一時停止を無視した自動車がえらいスピードで突っ込んできた。ブレーキを踏む間も無かった。僕の方はすでに交差点内に入っていたにも関わらず、相手の左腹へ突っ込んだ。相手がどれほどのスピードで突っ込んできたかが分かるというものだ。結構な事故だったがお互いかすり傷一つなかった事は不幸中の幸いだった。保険上の比率は8:2で相手が悪いという事になった。

 まあそれはそれとして、事故直後僕が警察を呼んだのだがその警官が言う。
「ここは事故が多いと言うことは知っているでしょう。」
なんて言い草だろう。分かっているのなら、今までになぜ対処しないのか。自分たちの怠慢を暴露しているようなものだ。勿論自動車に乗る以上どんな事が起こるか全て想定して運転すべきだが、こちらは交通ルール通りだし相手は表示が見えていない。これは当然対策を講ずるべきなのだ。
 ようやく信号がついたのはまだ数年前だ。それも周辺住民の相当な要望があってのことらしい。詳しくは知らないが信号を設置するには道路幅などの条件がいるらしく、それに適合しない場所にはつかないと聞いた。それはわからないではない。

しかし誰のためのルールだ?

人命よりもルールが大切か?
 
最近新しく開通したその道路の「肝心な」交差点にも信号は無い。あと何回交通事故が起きれば警察は重い腰を上げるのだろう。どうか死亡事故だけは起きないでほしい。もちろん他人事ではないけど。

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2005年12月 3日 (土)

お酒

 家族で仕事をしているとどうしても衝突してしまう。もちろんそれは「甘え」があるからだ。特に父親と衝突する。親子だから言い返す言葉にも遠慮がない。良くも悪くも相互依存となっている部分がある。今までサラリーマンで実家にも長期間いなかったせいで、父親との関係をだらだらと先延ばしにしてきた膿を出しているのかもしれない。

 こんな時酒が飲めたらいいのだろうなと思う。家族中が飲めないため食事もあっという間に終わる。酒が飲めたら酔った勢いで言いたいことを言い、次の日は酒の勢いだということでさらりと流せるんじゃないかと思ったりする。

 飲めない人間にとっては、酒を美味しそうに飲む人をみると羨ましい・・・というと少し違うけど、なんだかやっぱり羨ましい。

 それに「酒を飲むという絵」は格好良く映るんだよな。

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