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2006年2月22日 (水)

竹島の日

 今日は島根県が定めた「竹島の日」。

「祝!!竹島の日」

と言える状態ではないことは周知の事実。竹島は日本の領土である。韓国も自分たちのものだと言っている。困ったことだ。ではどうするか?そんな場合は「国際司法裁判所」というところで争えばよいという事は、少し調べればわかる。日本は「そこで決着つけようぜ」と言っているのだが、韓国は「そんな必要はない」とつっぱねている。

「自分が正しいという自信があるのなら、どこへでも出て主張すればいいじゃん。」

普通はそうなると思うのだが、あの国ではどうも違うらしい。
「出るとこへ出ろ。」
「やだ。」
この時点で既に勝負あり。

 こう言っては何だが、国境というものが無い世界が理想である。

では国境を無くすにはどうすればよいか?

それは国境をしっかり決定し、誰もが国境を守る事。そう思っている。

逆の事を言っているように聞こえるかもしれないが、僕が言いたいのは「物事には順序がある」ということである。日本海の日本の漁場は韓国に荒らされ放題である。韓国側は乱獲により自国周囲の資源が枯渇してしまったため、日本の領海まで密漁に来ているわけである。このような輩に対して
「国境など無くして、仲良くやりましょうね。」
などと言ったら最後、どこまでしゃぶりつくされるか分かったものではない。ゆえに「人様に迷惑をかけないこと。人の物は人の物。」というような当たり前の良識が身に付いてからでないとそんなことはできない。無法者に与える自由などない。

韓国の不法操業(by★厳選!韓国情報★ 様

 今日は「嫌韓流2」をゲットしてきた。「嫌韓流1」の方も発売日当日に書店3件回ってようやく手に入れたが、このときは入荷も少なく買った書店でも目立つ所には置いてなかった。しかし今回はしっかり新刊本の棚にあった。業界も売れるとふんだな。ま、何が事実で何がウソかは自分で確認すべきだが、しっかり根拠も掲載されてるね。

マンガ嫌韓流2
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晋遊舎 2006-02-22
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(関係ないですが)
 先ほど、報道ステーションで滋賀の幼児殺人事件についてやっていた。犯人は中国黒龍江省の貧農の出身だと言っていた。まるで犯人の境遇に同情するかのよう。中国相手だとそんなんばっかりだね、はあ。

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2006年2月21日 (火)

胡蝶

「いつだったか、わたし荘周は、夢で胡蝶となった。ひらひらと舞う胡蝶だった。心ゆくまで空に遊んで、もはや荘周であることなど忘れ果てていた。ところがふと目覚めてみれば。まぎれもなく人間荘周である。はて、荘周が夢で胡蝶となったのであろうか。それとも、胡蝶が夢で荘周となったのであろうか。
 荘周と胡蝶はたしかに別の存在とされる。だが荘周は胡蝶となって空を舞う。これを「物化」という。」
(岸洋子訳 「荘子」より)

高校の古典の教科書にも載っていた有名な「荘子」の一節である。

さてそれに対して・・・

「すべては意識している”場”の問題です。船に乗っている夢を見れば、眠っている間はそれが現実です。”夢だった”と思うのは目が覚めた時です。そして船は幻だったことになります。もしも永遠に夢を見つづけるとしたら、その夢の生活が現実となることでしょう。
            ~~~(中略)~~~
 今あなたは夢を見ているのではないという確証はどこにあるのでしょう?もしかしたら、ここにいる人達と一緒に同じ夢を見ているのかもしれないということも考えられるのです。こんなことを申し上げるのは、地上には霊的実在に目覚めていないという意味で、『地上生活という夢』を見つづけている人間が無数にいるからです。その夢から覚めて、ようやく自分は肉体ではないという自覚を得るのです。何度も申し上げているように、あなた方は肉体をたずさえた霊であって、霊をたずさえた肉体ではないのです。これは大変な違いです。」(シルバーバーチの霊訓8巻より)

同じだ。

 果たして自分は目覚めているのだろうか。今この瞬間が「目覚めたという夢」を見ている中にいたらどうなるんだ?それを言い出したキリがないか。

 それにしてもこのシルバーバーチの文章に付けられたタイトルがいい。

「色即是空」

近藤先生、ナイス。

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2006年2月16日 (木)

昨日の記事に追加して

 昨日の「朝日新聞ネタ」の写真の事件をご存じ無い方もいらっしゃるかもしれませんので、詳しい説明をされているサイトを紹介しておきます。

http://asahilog.hp.infoseek.co.jp/

 実は僕自身朝日新聞を取っていたという前科があり、それは今では僕の数多くの恥ずかしい過去の1つです。

朝日を読むのは個人の自由。何を書こうが朝日の自由。サンゴに彫るのも朝日の自由。

んなアホな。
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さて話は変わって、フィオリーナの以心伝心様のところで

ブログの表紙を「フォトしまね」または「竹島の写真」で飾ろうキャンペーン

をされていますので、遠くの方から援護射撃のつもりでプロフィールに写真を貼ってみました。「フォトしまね」の画像がGOODなのですが、著作権問題があるようなので右の写真になりました。

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2006年2月15日 (水)

元気を補充できます

おもしろいHPを見つけたのでご紹介します。

ニューエイジなのかどうかよくわかりませんが、落ち込んでいる時にアクセスすると元気が出ます。
管理人のメッセージが音声で流れますので、スピーカーはONにした方がよいでしょう。

なお飲食は控えた方がよろしいかと思われます。

愛の妖精ぷりんてぃん 公式ホームページ

オフィスでここにアクセスするのも控えられた方がよろしいかと。

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鵜呑みにするべからず、まずは新聞記事から

朝日新聞

02

誰が言ったか知らないが

社訓:日々是捏造

     (ぷっ)

「ジャーナリスト宣言」 ・・・・・何より先にこれを疑うべきか。

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2006年2月14日 (火)

これも商売

 僕の母親はたこ焼きマニアである。いろいろなところのたこ焼きを食べ比べ、批評し自分の中でランキングがあるらしい。
 先週近所のスーパーへ来ていたたこ焼き屋の話をしてくれた。(彼女のなかではイケてる店らしい)

  母    「たこ焼き1箱下さい。でもマヨネーズはかけないでね。」
あんちゃん 「分かりました。」

できあがり間近、あんちゃんが青のりを振りかけていたのだが、いきなりアクシデント。なんと入れ物のふたが外れたこ焼きの上には青のりの山。

あんちゃん 「すっ、すいません。すぐ作り直しますから。」
  母      「いいよ、いいよ、上の青のりだけよけてくれれば。」
あんちゃん 「いや、すぐ作りますんで。」

そんなことで、あんちゃんまた作り出した。ところがまたミステイク(というほどのもんじゃないのだが)あんちゃんは母のはじめの注文を忘れてマヨネーズをかけてしまっていた。

あんちゃん 「あっすいません。もう一回作りますから。」
  母      「別に構わないわよ、それで。」
あんちゃん 「いえ、きちんとお客さんの注文通りにしないといけませんから。」
    母      「そんなに拘ってるわけじゃないから。それでいいよ。」
あんちゃん 「すいません、ちゃんと作りますから。1回ミスするとパニクっちゃって。」
  
というわけで、僕の母はたこ焼き作りを3回見学して1箱を買ってきた。僕としては「前の2箱も安くして買ってくれば、お互いに喜べたのにな。」などと不埒なことを考えたりして聞いていた。

たこ焼き屋のあんちゃんよ、君はきっと素敵なたこ焼き屋さんとして成功するぞ!!
がんばれー!思わず応援したくなってしまったのだった。

P.S  母親がいろんなところでこの話をしているから売り上げはきっと伸びていることでしょう。

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2006年2月13日 (月)

嘘つきはだ~れだ?

今夜もネットでいろいろな所を徘徊していたら、面白い物を見つけた。

棒太郎の備暴録様

韓国併合時の「創始改名」のパンフレットを掲載されている。すご!!よくこんな物が残っているものだ。内容を読んでみても丁寧な説明で書かれ、日本語とハングル語が併記されている。

はあん、やっぱり強制ではなかったわけだ。

さらに調べたらこれが大本かな?

http://www.ne.jp/asahi/m-kyouiku/net/seminarmizuno.htm

と思ったら違った。じつはこれだ。

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1578859

おまけ

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2006年2月12日 (日)

富士山

 富士山の写真。

昨年まだ会社にいたとき、静岡に転勤を命じられて暫くそこで過ごした。

うーん富士山はいいなあ。冬場だったのでしっかり雪も被っていた。

下は清水港から撮った物。これもまたよし。

DSCN0148

 

























DSCN0146

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2006年2月 8日 (水)

生命の誕生

 昼前のラジオで谷村新司氏が言っていたこと。(近々発表されるらしい)

 人間の生命の誕生は精子と卵子が結合して受精卵になる。そりゃそうだ。大方の人は知っているだろう。

ところが、だ。

何億もの精子が動き回ってその中のたった1匹が卵子とジョイントするのだが、実はその前に12匹の精子が卵子を取り囲んで「13番目」の精子が卵子の中へ入ることが出来るようにいろいろと世話を焼くらしいのである。そして準備が整ったところで「13番目」君が「じゃあ」という感じで受精するんだそうな。

 谷村新司氏は1年が12ヶ月あることや、キリストの使徒は12人だとかいう話をしながら、実は何か自然界の法則があり、それは古代から世界中で何らかの形で示されてきたのではないか?というような事を言っていた。

やるじゃん。

 昨日は秋篠宮妃紀子さまのご懐妊のニュースが日本中を駆けめぐった。うれしい知らせだ。皇室典範の改正法案の提出も先送りされそうな雰囲気だ。そうさお生まれになってから決めてもいいではないか。昨年ブログでも「愛子さまに弟が出来たらいいのに」と書いたのだが、いとこが増えるとは思わんかった。

霊界ってどんなだろうと考えることも多いし、生と死についてもよく考える。人生1回は死ぬ気で何かをしなくてはならない時があると思うのだが、こういう命の使い方は後で後悔するんだろうな。付ける薬がないよ。

(朝鮮日報 2006/2/4)


政府が韓国人へのビザの恒久免除を決定した。こういう人達が近々大挙して日本へ押し寄せる。

日本における外国人犯罪者数は中国と韓国がぶっちぎりのトップ

用心に越したことはないね。

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2006年2月 6日 (月)

幸福論9(終わり)

 星の王子さまがプレゼントをもらう場面がある。送り主はキツネである。

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ。」

物事は心眼で見よ、幸せを見つけるには心眼で見るのだ、と。

 では心眼で見るにはどうしたらよいのか?著者は「星の王子さま」の冒頭部分を引き合いに出す。
「おとなの人は、むかし、いちどは子供だったのだから、わたしは、その子どもに、この本をささげたいと思う。おとなは、だれも、はじめは子供だった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなはいくらもいない。)」

子供の時はみな「心眼」を持っていたのだ。それが成長して社会に出てもまれていくうちに、それをだんだん無くしていってしまうのだよ。それを思い出すんだ、というのだ。

 

 「星の王子さま」は決してハッピーエンドではないと言えるかもしれない。
「ね、遠すぎるんだよ。ぼく、とてもこのからだ、もっていけないの。重すぎるんだもの。」王子さまは砂漠でヘビに自分をかませる。自殺するのである。

 その前にサン=テグジュペリに告げる。
「ぼくは、あの星のなかに一つに住むんだ。その一つの星の中で笑うんだ。だから、君が夜、空をながめたら、星がみんな笑っているように見えるだろう。すると、君だけが、笑い上戸の星を見るわけさ。」

肉体が自分の本質でないことをオブラートにもくるまず言い切っている。また王子さまの理屈だと、自分が一度死んで甦ることで宇宙全体になると言う。そして星になって空から微笑みかけるよと言うのだ。

エントリーの序盤で書いた幸せの条件「宇宙との一体感」ここへ来たわけだ。

 「星の王子さま」を読もうが、「幸福論」を読もうがそれで幸福になれるわけではない。
暗記しても誰も幸福を運んできてはくれない。これはあくまでも自分が幸福になるにはどうするかを考察している。では他人を幸福するにはどうすればよいか。それは書かれていない。当然といえば当然である。そういう考察なのだから。でもマイナス思考、不幸な人とは距離をおいて自分を守るだけでよいのだろうか。そんな疑問を持った。再度書くが「幸福論」は読んでいないのでそれらの中に何かがあるかもしれない。

今回のブログでの「幸福論」はそれぞれの自分のための幸福論である。

自分がまず幸福でなくては他人を幸福になど出来ないだろう。はたしてこれは「利己主義」となるのだろうか。実は読み終わってもよくわからんのである。

(おわり)

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2006年2月 5日 (日)

幸福論8(微笑と勇気)

 星の王子さまとサン=テグジュペリは砂漠の中で水が乏しい事を知る。そこで王子さまは危険ではあるが、「井戸を探しに行こう!」と歩き出す。そしてついに井戸を発見し十分な水で喉を潤すことに成功した。

 作り話なのだから上手く行って当たり前である。探しに行ったが見つからず、2人とも死んじゃいましたではストーリーにならない。

 著者がアランの幸福論と星の王子さまの共通点として挙げるのが、一つは「微笑」そしてもう一つが

「 勇 気 」  なのだと言う。

「微笑」と「勇気」がアランの「幸福論」の車輪の両輪であると。

 著者は簡単な例を挙げる。たとえば読書、これは人と全く比べることのない幸せ、つまり「絶対的幸福」の代表例だが長編小説を自分のものにするには「骨が折れる」。まずそこへ飛び込む勇気と継続する労力が必要であると言っている。

「勇気がなければ幸せにはなれない。」
「人からもらう幸せの賞味期限は短い。そういう幸せにすぐ人は飽きて、退屈してしまう。」

自分の力で勝ち取るしかないのだ。口を開けて待っていても幸せは落ちてこないぞ、勇気を出して前へ進め、と。

 さてそこで昨夜書いた「アランのとんでもないバクダン」である。

(以下引用)
「ほんとうの楽しみはいつも忘れられている。なぜなら、ほんとうの楽しみとは、

まず第一に 
労苦 であるから。」

(引用終わり)

おのれを苦しめる「労苦」を自ら求めよ。というのだ。著者は分かりやすく「スポーツ」を例に出している。スポーツは記録や勝利を得るためにチャレンジし続ける。毎日のトレーニングは苦しいことばかり。でもその限界へのチャレンジこそが「代えがたい無情の喜び」なのだと。アランはこれを「労苦の幸福」と呼ぶ。

 違う見方をすれば、スポーツにおいて成績をあげることで達成される「相対的幸福」と、トレーニングそのものによる「絶対的幸福」を同時に味わっているのだという。

(以下引用)
 「労苦」と「苦労」は違う。労苦は自分のやりたいことで、何かの目的を実現しようと必死にがんばることであるが、苦労はただ困難な状況で耐え忍びながら労力を使うことを言う。つまり「労苦」と「苦労」の差は目的意識の差なのである。
(引用終わり)

蛇足になりそうだが書く。取り組んでいることはどちらも同じ困難なのだ。苦労も労苦も目的意識が違うとある。そう見方が違うのだ。つまり地上的視点でみれば「苦労」だが霊的視点で見れば「労苦」と言えるのではないだろうか。

 著者は人の意識を分類して10のパターンに分けている。ここではそこまで書かないが日本人は戦後から高度成長期まで必死に相対的幸福を求めてきた。しかしこの10年ほどで変わってきている。そしてそれは歓迎すべき事だと言っている。

(次回最終回)

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2006年2月 4日 (土)

幸福論7(見上げてごらん夜の星を)

 だんだん処世術か成功術に近くなっているのだが、せっかくなので紹介する。(今日は引用ばっかし)

「マイナス思考の人からはさっさと逃げろ。」

分かることは分かる。傲慢で身勝手な人からは逃げるのは難しくない。でも不幸と不運をどっさり背負った友人もいる。その人もまたマイナス思考なわけだ。確かに逃げようと思えば逃げられる。それでいいのか?手を貸し力になろうとすれば自分の陽気さを相手に与え、相手の陰鬱さをもらうことになるだろう。その強い方に引っ張られることになる。

自分自身が幸福になるにはどうすればいいのか、という考察だから仕方ないか・・・。

「形から入れ、外見もまた本質である。」

昨日のしぐさと同様の話だ。空元気でもあとから元気がついてくる。礼儀や挨拶をきちんとすればそれもまた幸せへの近道だという。

「秀才タイプは幸せになりにくい。」

(以下引用)
「赤ちゃんがむずがって泣きやまない。いくら世話をしても大声で泣くばかり。すると周りの人は、お父さんの性質が遺伝したとか、心理学的にはこう理解出来るなどたちまち理屈による正確分析を始める。しかし赤ちゃんをあやすうちにヒョイと気づいたりするのだ。実はオムツのピンがお尻に当たって痛かったんだな、と。なんだそんなことかというわけである。」
(引用終わり)
 頭のいい人は何でも理屈で片づけようとする。でも世間は理屈通りに動いてはくれないよ。理不尽なことばっかりさ、というわけだ。
 想像力がえてして不幸のスパイラルを引き起こす、と以前書いた。頭のいい人はそれに輪をかけた状態になることになる。さらに頭のいい人は大抵プライドが高い。だから不幸のネタに我慢ならない。また理想の自分に届かない自分に腹を立てることにもなる。日夜自己反省し、自分自身を責め立てる。(だからといって自己反省を全くしないのはただのバカだな。要は度が過ぎるんだな。)従って秀才タイプは常に陰鬱な顔をしている。「微笑」の理屈からすれば幸せを自ら遠ざけていることになる。
(以下引用)
「つまり彼は、幸せを待っているのである。これだけ努力してエリートになったんだから、早く幸せにしてくれよ!オレの努力の対価である幸せを早くよこしてくれよ!!と世の中に要求しているのである。アランは、こういう心の状態にある人々をエゴイストと呼んでいる。」
(引用終わり)

はい、見事に叩きのめしてくれました。

アランはこんな人々にアドバイスをくれる。
(以下引用)
「「遠くをごらんなさい」と。憂鬱な人はみな「読み過ぎ」なのだ。人間の目はこんな近距離を長く見られるようにはできていないのだ。人間の目ははるかな水平線をながめるとき、やすらぎを得るように出来ている。そのことはわれわれに大いなる真理を教えているのだ。」
(引用終わり)
星の王子さまのセリフだとこうなる。
(引用開始)
「夜になったら星をながめておくれよ。ぼくんちは、とてもちっぽけだから、どこにぼくの星があるのか、きみに見せるわけにはいかないんだ。だけどそのほうがいいよ。
 きみは、ぼくの星を、星のうちの、どれか一つだと思ってながめるからね。すると、きみは、どの星も、ながめるのが好きになるよ。星がみんな、きみの友だちになるわけさ。」
(引用終わり) 

遠くを見て陰鬱さを忘れ、宇宙と一体になりなさい。王子さまもそう言う。

 アランは「微笑」を強調するが、実はもう一つ大切なことがある。それを後日書く。その続きで最終的に「幸せとは何か?」という結論に辿り着くのだが、それが実はとんでもないバクダンなのだ。

(もうちょっと続く)

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2006年2月 3日 (金)

幸福論6(微笑の効果)

 いい気分でいられれば、不幸を寄せ付けない。いい気分でいるには常に微笑んでいればよろしい。アランはそう言う。拍子抜けするような感じがする。

「微笑には体内効果と対外効果がある。」

微笑することで自分の体をほぐれる効果があるらしい。経験的に誰でも分かる。しかしそれを意識的にやっている事は少ないのではないだろうか。これが内面の効果。外についてはどうか。

「しぐさと気分は一致する。」

気分次第でしぐさは変わってくる。納得できる。アランはさらに踏み込む。しぐさ次第でそのしぐさに応じた気分を誘発させることができるというのだ。

(引用開始)
うれしい気分  →   自然に   → うれしいしぐさ
うれしいしぐさ → なぜか導かれる → うれしい気分

人は幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せになるのだ。アランは生涯こう言い続けることになった。
「まず微笑みなさい」
(引用終わり)

「気分は伝染する。」

 これも経験的に誰でも知っている。営業マンなどは当たり前に知っているワザでもあるだろう。まず微笑む、それだけで商談は違ってくる。ただ逆にビジネスにしか活用されていないかもしれない。  
  しかしアランの凄いのはここからだ(と著者は言う)。

「まず自分が微笑むことで相手を癒す、次にその相手の上機嫌をもって

自分自身の気分を直す。」

 自分自身の気分を支配するよりも、他人の気分を直接支配する方が優しい、そうアランは言う。これは凄いと思う。

 無理にでも気分を良くする。しかしそれは容易ではない。一方でしぐさから入ってしまえ、そうすれば自然に気分は良くなる。他方でまず他人の気分を良くし、そのはね返りで自分の気分を良くしてもらえばいい、ということになる。

 そして最後にはかつて「強引に作った微笑」も「本物の微笑」になるのだ。

とアランは言っている(と著者は言っている(と僕は書いている))。
 

「営業用スマイル」などと世間では言われる。世間の会社の受付のお姉さん方もそれが苦痛だろうな、というようなイメージを僕は持っていた。しかしどう考えてもぶっきらぼうな対応をされるよりは作り笑いでも笑顔の方がいい。それはとりもなおさず彼女達自身へも良い効果があるわけだ。

たとえ笑えなくても口元を少し上げてみても違うだろう。やってみる価値はある。なんせ金がかからない。

(まだ続くんだな)

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2006年2月 2日 (木)

幸福論5(心の動き)

 改めて書いておきますが、僕が読んだ「幸福論」は「星の王子さまの幸福論」だけであり、これまでに紹介した著名な各「幸福論」は読んでおらず、あくまで星の王子さま版で著者が考察しているものの中から気になった部分を紹介しているだけですので、ご了承ください。こんな考察は僕にはできやしません(汗)。多少スピリチュアリズムの観点からするとどうか?ということを考えるのみです。

 さて、くどいようだが「星の王子さま」。ここまで来たら最後まで突っ走ってしまわないと「気分」が収まらないので、まだやる(笑)。あと4,5回くらいか?

「心の中は、良い循環と悪い循環でできている。」

著者はこんな例を挙げている。

知り合いが自分の悪口を言っているのを知る。
         ↓
腹が立って、理由を考える。新しい情報もなくさらに考える。
         ↓
怒りはエスカレート、それまでの互いの言動を総チェック。
         ↓
理由は分からず、誰もが自分の悪口を言っているのではないかと考える。
                  ↓
怒るから興奮し、興奮するから余計に怒る。悪循環。

アランはこれを『地獄のぐるぐる回り』と呼ぶらしい。これに対し当然『天国のぐるぐる回り』も出てくる。

仕事を一生懸命がんばる。
         ↓
仕事が高い評価を受ける。
         ↓
さらに仕事を頑張れる。

「良き原因」を作ったことで「良き結果」を得る。その「結果」がさらに次の「原因」を生む。原因と結果、因果律ですな。ただここで怖いのはこの心の中の循環は回り始めると加速度的に速度を上げ、雪だるま式に巨大化していくと著者はいう。

「想像力は心の中の猛獣である。」

著者は言う。人間は想像力を働かせることで生活し、文明を発展させてきた。想像力とはもの凄い力を持っているのだと。しかしそれがひとたび狂い出すと大変なことになる。一つ悪いことが起きると次の悪いことを「想像」する。それを元にさらに悪いことを「想像」してしまう。実際には何も起こっていないのに自分で自分を窮地に追い込んでしまう。

実はこれが絶望の正体なのである。

ではどうすべきか?
アランにとっては簡単な話らしい。

「気分が良ければいい」のだそうだ。

気分がよければ少々嫌なことがあっても、心の悪循環には乗らずに済む。気分が悪ければそこへはまり込む。気分次第なのだ。だからその「想像力」という猛獣を制御しなくてはいけないというわけだ。ではその「良い気分」でいられるにはどうするか?

それこそが星の王子さまが最後に残していった『微笑』であると著者は言う。

(まだ続くらしい)

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2006年2月 1日 (水)

幸福論4(絶対・相対そして微笑)

 星の王子さまはかつて自分の星で世話をしていたバラと同じバラを見つける。当時は1本だけだったがそこには5千本もあった。でも王子さまは自分が世話をしたバラを愛おしく、また悲しく思い出す。

「幸せを人と比較してはいけないよ」

幸せはA絶対的幸福とB相対的幸福に分けられるという。Aとは他人の価値観に惑わされずたった一つのものと過ごす幸せであり、Bは競争社会において人よりできるだけ上等な物を手に入れる幸せとしている。著者によればラッセルはこの双方を求め、ヘッセはAこそが本当の幸福だと言っている。しかし人間は常にどちらかで生きているわけではなく、時と場合によって使いわけているようだ。
 僕もヘッセの言うような「絶対的幸福」が理想だろう。しかし捉えようによっては「利己主義」の黙認と考える人も出てくるのではないか少しと危惧する。違うけどね。
 著者はラッセルの幸福論からA「宇宙との一体感」とB「人生の大目的」を持てと言う。実はこれがA「絶対的幸福」B「相対的幸福」なのだそうだ。そしてそれを両方持つべきだというわけだ。これをどう考えるかは人それぞれだろう。
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 王子さまは地球での友達(サン=テグジュペリ)との別れの場面で贈り物だよと言って笑った。
「ぼっちゃん、ぼっちゃん、ぼく、その笑い声を聞くのがすきだ。」
「これが、ぼくの、いまいったおくりものさ。」

「微笑」これこそが幸せになる方法の根元的原因として捉えているのが、20世紀で最も有名なアランの「幸福論」だそうである。

 著者によるとアランの「幸福論」は「気分」に注目して全てを始めているという。人から誉められれば気分がいい。いじめられれば気分は悪い。これは頭の中のことである。しかし睡眠が充分とれて体が軽ければ気分は良く、肩がこれば気分は悪い。「気分」は頭と体の両面から影響される。言われてみれば当たり前である。しかし人間は体が頭の奴隷と考えがちであり、これが間違いだという。

そこで「心」というものが登場してくるのである。

(つづく)

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