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2007年7月27日 (金)

今年も書きました

このところ毎年恒例のお習字三昧の日々で、かなりパワーを使いまくってる。
ようやくまずまずの物ができたので、教室で師匠に見せるために持参した。師匠を迎えに駅で待っていたのだがなかなか現れない。メールで問い合わせる。
「あと10部です」
との返信。
はいはい、あと「10分」ね。わかりましたよー(笑)、また返信したところ、さらにまた来た。
「ごめんなさい、人事事故です。」

ぶっ

車の中で一人で吹いた(笑いごとではありません)。相変わらず意表をつく日本語だ。

さて今年の制作物は草書と隷書を1点ずつ。

草書らしい草書は実は初めて作品にしてみた。うーん・・・・・・・なんつーか、今の僕には水っぽすぎるなあ。

書体は基本的に、楷・行・草・篆・隷 の5種類に分けられるが、楷書と行書、行書と草書は厳密に線が引かれて分けられるものではなく、行書に近い楷書もあれば、草書に近い行書もある。まあステーキの焼き方みたいなもんだわ。(みでぃあむれあーとかさ)

草書というのは(上手い下手とは別にして)川の水が流れるように、すぅーと書けてしまう。勿論盛り上がるところは何カ所かあるのだが、そういう起伏を出さないのがいいのかなあとか思う。

これに対し、楷書は規則正しく朝起きて9時から仕事を始めて、12時からは1時間昼食と休憩をとり、10時と3時には休憩をして5時になったらピタッと終了する。これを何年も続ける真面目な感じ。

で、僕が一番好きなのは多少草書に近い行書。はっきり言って「魅せる」書だと思う。テクニックを「これでもか!」と出すには一番いい。何と言っても歌舞伎でいうところの「見得を切る」ところも多い。従って今まで書いたものの多くがこの行書である。もっとも最近はこの「魅せる」というのがいくぶん「いやらしい」とも思うようにもなってきた。多分料理で言えば、カレーライスや激辛ラーメンみたいなもんかもしれない。草書はどうかといえば、「お吸い物のダシは何だろう?」「このほのかな香りは何だろう?」みたいなもんか。まあ草書よりさらに「水っぽい」のは「かな」なのだが。

ところが篆書・隷書は、個人のカラーは別にすると書体としてはほとんど固定化されているように思える。

そんな隷書を書いたのがこれ。
左が手本で中央と右は僕が書いたやつ。見慣れていない方は上手いんだか下手なんだか分からないと思うけど、何となく規則性があるのは理解していただけると思う。料理で言うと何だろう?寿司のにぎりを四角く詰めたみたいな感じかな。(なんじゃそりゃ)

070727a




























画像を編集してみたら、色の反転機能があったのでやってみた。
なんと拓本が出来てしまった。こっちほうが上手く見える。

070727b































ちなみにこれが本物の拓本。

Takuhon1































Takuhon2



















(作品は表装が出来たらまたギャラリーに入れます。)

すげぇ疲れた。

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2007年7月18日 (水)

エクソシストモドキとの対話

久しぶりに相手をしてみる。
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貴方一人のお芝居で成り立つ物じゃない!【ここブログ】
寂しくな~~い  
人のために成る活動をされることを、シルバーバーチ霊も
貴方へお勧めになるはずですよ。

自身が、無知であることを、知るべきだったのです。
蓮華が新しい貴方ですか?
そんなことは、どうでもいいことだったのですよ
Fにとってはね!! つまらない くだらない稔りない
ブログを畳む勇気をお持ちくださいなー
エクソシストの神父が本物の神父で有るなら内部破壊を考えるでしょうね、Fなら1番にそれを考えるわー
その神父が、神の声を聞こえる者なら発狂してることでしょう、エクソシストの歴史を、お判りなら恥と想うだろう
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>人のために成る活動をされることを、シルバーバーチ霊も
>貴方へお勧めになるはずですよ。

銀メッキ蜂殿は「Fさんに対して」はそれをお勧めにならないみたいですね(笑)。

>自身が、無知であることを、知るべきだったのです。

それは僕にソクラテスの「無知の知」を説いているんでしょうか?
ま、それはそれでいいでしょう。

>Fにとってはね!! つまらない くだらない稔りない
>ブログを畳む勇気をお持ちくださいなー

ここへ来なきゃいいじゃん。
批判は構わないけど、「ブログを閉鎖しろ」とはまたあつかましい限りですな。

>エクソシストの神父が本物の神父で有るなら内部破壊を考えるでしょうね、Fなら1番にそれを考えるわー

本物だからこそ、Fさんのようには考えなかったんでしょうねぇ(ぷっ)。
(意味もわからん)

>その神父が、神の声を聞こえる者なら発狂してることでしょう

神の声が聞こえるという人で、発狂しているかのような人を、

僕は一名知っています。  ( ´△`)y-~~

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2007年7月17日 (火)

エクソシストとの対話3

(以下引用)
 (カンディド)神父はこう訴えている。
「なぜ知性を有する目に見えない外的存在が、我々に影響を及ぼしうるかもしれないということを研究する人は少ないのだろう」
(引用終わり)

 カンディド神父というのはエクソシストである。エクソシストとは悪魔払い師のことである。これまでカンディド神父は人生を賭けて「悪魔」を祓ってきた。関わってきたのは「悪魔」という存在ばかりだったのだろうが、それは派手に出てくるものばかりが目に付いたようなものではなかったのかと思う。高級霊と呼ばれる存在の共通した特徴の一つは「謙虚さ」であるという。
 
 1995年に起きた「地下鉄サリン事件」では多くの犠牲者が出た。しかし巻き込まれなかった人もいる。出社時間や路線が違えば回避できて当然なのだが、本来であれば間違いなくその事件に巻き込まれていたはずの会社員がいるそうである。その地下鉄を利用し毎日会社へ行っていたのだが、「その日」だけはなぜか会社へ行きたくなかったという。別に体調が悪いわけでもなく自分自身その理由がわからない。会社員は結果的に欠勤してしまう。ところがその日こそが「地下鉄サリン事件」の日であったという。(何で読んだか忘れた)
 また少し古いが日航機墜落事故、この時は搭乗手続き直前でキャンセルした人が数人いるそうである。
 偶然といえば偶然である。しかしその紙一重の差で人生は大きく変わる。何が正しいのかはわからんけど。

武田鉄也 今朝の三枚おろし
先週から今週にかけては心霊ブームについて語っておられるので面白い。ネットでは1週遅れになっているので、今週聞けるのは先週分。今週も生で聞いているが、今週月曜からの題材は佐藤愛子氏の「私の遺言」である。

本の名前を出されただけで笑った。 

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2007年7月14日 (土)

エクソシストとの対話2

 悪魔学の権威であるバルドゥッチ神父が著者に語る。(以下引用)

「(前略)つまり、悪魔の誘惑に打ち勝つことで、人間は精神的に強く、健康になれる。葛藤や苦悩が、日常性の物質的限界に沈み込んでいる我々を超越的なものに触れるきっかけを与えてくれるのです。誘惑といっても、肉体的誘惑という狭い意味ではありませんよ。突然の事故や大病、神を呪いたくなるようなできごとです。予期しない悲劇、愛する人の死といったものに直面する時、僕らの心は、ふっと自分を越えた存在に向かおうとする。時間や肉体の限界を越えた世界を模索するのです。」
神父は、さらに力を込めた。
「いってみれば、悪魔のお陰でより聖性を高めたといえるのです。」
そこに驚くべき逆転の発想がある、ということはぼんやり理解できたが、どうにも言葉に心がついていかなかった。(引用終わり)

 次に神父は旧約聖書のヨブ記を説明する。ヨブは不幸と悲劇のどん底にたたき落とされるが、その苦しみを突き抜けた先に不思議な境地が開けていったという。そして幸福になり長生きしたのだという。

ここで著者は言う

「神に愛された者ほど、悪魔の手は忍び寄る。」

 要するに高く飛び上がるためには一度かがまなくてはならない。そんな感じか(←単純すぎる)

 それにしてもこの「悪魔」の考え方はスピリチュアリズムと全く同じである。ケチをつける所は無い。しかし、実はこれだけでは不足しているのである。

何が不足なのか?

 例えば、苦難を乗り越えられた人はいい。しかしそれを乗り越えられず、最悪の場合自殺したりした場合はどうなるのか。また愛する人を失った自分については書かれているが、自分が突然死をした場合はどうなるのか。神を恨むような出来事を克服して本当に神に感謝出来るようになれば万々歳だが、そういう人ばかりでもあるまい。

 苦労のない人などいるわけがないのだが、「セレブ」などと言われる人達を見れば、金もありブランド品をまとい、別荘を持ち・・・・・と、何の苦労もなしに人生が過ぎていく(ように見える)人もいれば、食べるものにも事欠く人もいるわけで、それでは不公平になってしまう。

何が不足なのか?

 それは霊魂の永続性である。肉体が消滅しても個性は存続し、次にまた肉体に宿る。そしてその都度違う経験をし、乗り越えられる範囲の苦労をし、向上出来る範囲の向上をする。

 当然レベルは人それぞれである。だからその人にとっては人生ギリギリの苦難も、違う人にとっては「痛いなあ」という範囲内、ということも起こりうる。こういうことを繰り返すからこそ、全ては平等であると言える。

 それが、この人生が1回きりであとは天国か地獄のどちらか。それではあまりに不公平である。これを共に説かなければ片手落ちになってしまう。

(書いている本人が本当に理解出来ているかは甚だ疑問だが)

ちなみに

「だったら今回は自殺して、次回がんばろう!」

、、、、、、、、、、、、_| ̄|○

そうじゃないんだよな。

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2007年7月10日 (火)

エクソシストとの対話

エクソシストとの対話
エクソシストとの対話 島村 菜津

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 読み終わった。ホラー小説などとは全然違う。
 映画の「エクソシスト」は見たことがあったが、うーむ、本当にエクソシストが存在していたとは。

 登場人物はキリスト教の神父が何人か出てくるが、メインで扱われているのはカンディド神父という人物である。しかし残念なことに著者が取材に行く少し前に亡くなっており、それが返って関係者への取材を広げることになり、キリスト教内部についても書かれるに至る。

  「エクソシスト」というのは要するに「悪魔祓い師」である。何でもかんでも「悪魔」と言うより「霊」と言ったほうが良いのではないかと思うが、別人格が宿ったり、ポルダーガイスト現象が起きれば「悪魔だ」と言いたくなるのもわからないでもない。当然悪魔と戦ったイエスといった宗教的背景があるのだから仕方のないことかもしれない。

 まあそんなことはいいとして、この「エクソシスト」というのは神父がなる。なるといってもそれは自認ではなく、上からの任命である。そうエクソシストとは驚くべき事にキリスト教公認の「聖務」でなのである。そしてその歴史は1500年前まで遡るというからまた驚く。しかしエクソシストと呼ばれる人間が全て任命された者ではなく、多くは「自称」であるらしく、それと区別するため「公式エクソシスト」とも呼ぶそうである。

 次にエクソシストたる条件は以下のとおりである。(以下引用)

   悪魔に苛まれる人を癒す司祭は、特別に教区の司教から認可を得ていること。
   そして信仰心と思慮深さ、人生全般にわたる潔白さを持っていること。
   己の力ではなく神の力を信じ、あらゆる利益への貪欲さと無縁にして、
   ただ慈愛と謙遜に基づく、宗教的使命のもとにこれを行うこと。
   また成熟した年齢に達しており、その聖務によってだけではなく、
   品性の良さによって尊敬に値するような人物であること。(引用終わり)

また、膨大な量に及ぶであろう文献にも精通していなくてはならないし、言語についても何カ国語も駆使できなくてはならない。ここで悪魔に騙されないポイントにも言及されている。(以下引用)
  
   まず第一に、簡単に悪霊が憑依しているのだと信じ込んではならない。
   そのために、他の病気、特に精神病を煩っている人と悪魔憑きを見分けるための
   兆候をよく知っておくのが好ましい。悪魔の存在を示す徴しとして、
   知らない言語を正確に話したり、理解したりすることがある。
   遠くの、または隠されている事物を熟知したり、年齢や自然条件を
   越える力を発揮するなど、その他無数にある。(引用終わり)

その他、名前を聞けとか騙されないようにとか、悪魔の無駄な行為や嘲笑を相手にするな、など随分細かい指示もある。要するにこれは優秀な「審神者」と除霊(浄霊)が出来る霊能者を一人で掛け持ちするようなものである。

 ここで悪魔祓いといえば、避けて通れないのが中世の「魔女狩り」である。何となくヨーロッパ中どこもかしこもやっていたようなイメージがあるが、その温度差は地方によってまちまちであるらしい。興味深いのはそのような蛮行を大々的にやった歴史を持つ国ほどエクソシストは少ないか皆無であり、そのような悲劇が少なかった地域ほどエクソシズムの伝統が残っているのだという。その代表的なのがイタリアやスペインの大部分であるという。イタリアではガリレオの地動説を撤回させたのが悪名高い異端審問所なのだが、実は教会はその上に「検邪聖省」を設置し異端審問所にブレーキをかけていたという。そのため魔女狩りで裁判にかけられても処刑にまで至ったケースは全体の4%に満たなかったそうである。(1540-1900の期間)

しばらくかかりそう。

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2007年7月 4日 (水)

民主党 平岡秀夫 2

 前回に記事について、ブログをお読みいただいた方からコメントを頂きました。そのままコメント欄の返信だけで終わらせてしまうのは悲しいと思いましたので記事にしました。

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少年犯罪ではありませんが、息子を犯罪で失ったものです。
どんな事情があれ、人の命を奪うと言う事は許されるものではありません。

たとえ加害者が死刑になったとしても、遺族は癒されるものではありません。
いえ、一番納得していないのは、何の落度も無く理不尽に命を奪われた本人です。

突然命を奪われた者は「死刑」に、遺族は一生苦しむ「終身刑」を科されたようなものです。
加害者の刑が一番軽いものである事を、平岡氏はまったく把握していません!
批判に晒され自身のHPに謝罪文を載せましたが、弁解にしかとれません!

投稿 遺族 | 2007年7月 4日 (水) 13時07分
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 はじめまして。コメントをいただきましてありがとうございます。

 まずは何よりも、お亡くなりになった息子さんのご冥福をお祈りします。
 どうお返事を差し上げたらよいのかと考えておりましたが、そうした経験の無い自分がご遺族の方の心中を本当の意味でお察しすることは、まず不可能であると思っております。その点ご理解ください。

 さて、国会議員の発言が問題になる昨今ですが、本質的には恐らくこの平岡氏の発言ほど人間性を無視したものは無いと思います。

>たとえ加害者が死刑になったとしても、遺族は癒されるものではありません。

 そして亡くなった被害者は生き返らない。そこへ平岡氏は
「だからしょうがないじゃないか。」
と言っているようなものです。相手が死刑になっても亡くなった被害者は帰ってこない、また遺族の方も癒されるはずもないということは頭では分かっている、でも、それでも、という部分があると思います。

>一番納得していないのは、何の落度も無く理不尽に命を奪われた本人です。

 まったくもってその通りだと思います。平岡氏はこれを完全に無視しています。番組内でも常に加害者の肩を持ち、被害者の人権は無視、まさに「死人に口無し」を体現していました。

 今このようなことを書くのは如何なものかと思いますが、自分は多少の知識といくばくかの経験上「肉体の消滅後も個性は消滅しない」と考えていますので、亡くなった方を無視するような平岡氏及び郡氏にはさらに憤りを覚えます。

>突然命を奪われた者は「死刑」に、遺族は一生苦しむ「終身刑」を科されたようなものです。

 仰るとおりで言葉もありません。

>加害者の刑が一番軽いものである事を、平岡氏はまったく把握していません!

 たとえ「終身刑」を言い渡されても実際には十数年くらいで出てこられますね。それで禊ぎは済んだ、などと考えられては被害者もご遺族もたまったものではないと思います。

謝罪文は知りませんでしたので探して読んでみました。言い訳ですね。

 「目には目を、歯には歯を」これが正しいとは言えないかもしれません。しかしもし自分がご遺族の立場になればこれを叫ぶと思います。「自分がしたことを自分で理解しろ」と。それに対し「そんなことでは争いは無くならない」と言うような人間は偽善者だと思います。

 かつて武士道においては仇討ちは美徳の一つでした。(目上の人間の仇という限定があったようですが)しかしそれも法が裁くことでなくなりました。これはこれで社会の前進だと思ってはいます。しかしそれは被害者が加害者になることを止めることにはなりましたが、刑の確定までに長い時間がかかる、もしかしたら無罪で終わるかもしれない。そんな別の次元でストレスが発生したのかもしれません。それに過去の判例にならうため、遺族感情は置き去りにされているとも言えるかもしれません。

 番組内で青木さんが言っておられたように、法は弱者を守るため、そして悪人を裁くためということが大前提なのですが、日本の場合やたら加害者の権利ばかりを強調してます。おそらく「性善説」を根底に置いているからだと思うのですが、それでは被害者は常に傷口に塩を塗られ続けるようなものだと思います。

 ご遺族としては、思い出すのも辛いけど、忘れてしまうのはもっと辛い。そんなご心境ではないかと思います。残念ながら自分にはおかけする言葉が見つかりません。具体的にどうしたら良いか、というアドバイスもできません。ただあんな国会議員は支持などしません。

 話は飛びますが、「自由」「平等」や「権利」は良いことだらけだと考えられがちです。しかしこれは火と同じで使い方を間違えるととんでもないことになると思います。何をするのも自分の「自由」、何もしないのも自分の「自由」、しかし結果は真面目にやった人間と同じく「平等」な結果をもとめる「権利」がある。そんなことばかり認めていたら社会はどんどんおかしくなると思います。そして実際おかしくなっているのだと思います。

 若輩者が分かったような口をきくのはどうかと思いますが、思った事を書いてみました。失礼がございましたらお許しください。

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