日中展2008(その1)
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うちの書道の師匠は生徒個別に希望する書道の本(中国のもの)を渡し、それを見て改めて手書きの手本を書いている。
書の師匠は数カ所で教室を持ち、大きい所では某文化センターで教室を持っている。そこは多種多様な教室があり、見学者も多い。
先日も60歳は過ぎているであろう爺さんグループが来たそうである。教室の様子を見た爺さん、
「あら、先生は手本を見て書いているんですか?」
「はい、そうですが」
「なんだ、先生なら自分の字を確立していて、それを教えるのかと思いましたが。」
「・・・」
改めて書くまでも無いが、師匠はとっくに自分のスタイルを確立している。彼に言わせると
「僕がいろんな人の字を書いて生徒さんに渡すのは当たり前のことなんだよね。もしも僕が僕の字だけを書いて教えていたら、生徒さんは絶対に僕を超えることは出来ない。弟子というのは師を超えていかなくてはいけないんだから。」
「青は藍より出でて藍より青く」ですな。(貴方のレベルまで行ければあたしゃ本望だよw)
「でも、あの見学者の人達はわからないんだよね、それが。僕もどう説明したらいいか分からないからもう何も言わなかったけどね。」
師匠にしても古典や他の書道家の書いたものを見て自分で書くことによって、自ら更なる勉強をする意味もあると思う。
解ったと思ったらそこで進歩は止まる。解ったつもりが一番どうにもならんか。
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(関係ないけど)
先日チャットでまた竹島の話題にw
ちょん 「竹島は韓国のものです。」
ちょっぱり「裁判所へ出てきなさい。」
ちょん 「必要ありません。もう長い期間韓国のものになっています。」
ちょっぱり「韓国の領土である根拠は何だ?」
ちょん 「韓国に近いです。」
ちょっぱり「距離の問題かよw」
ちょん 「そうです。」
朝鮮半島は中国に接しているので距離はゼロです。したがって朝鮮半島は中国の領土ということになります。
それで構いません。
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僕が入っている書道展の会員は全員で45名ほどである。この中には書に関して全くの素人で始めて数年の人もいれば、自分で教室を開いて子供若しくは社会人に教えている人もいる。こういう人達が一緒に展示会をするので面白いといえば面白い。上手い人が見事な作品を書くのは当たり前だが、逆にビギナーだった人が1年経ってどれほど上達しているかを見るのも楽しい。いや、かなり目をみはる作品もある。そういう作品を書かれる方は六十の手習いで始めた人で、展示会の時は「自分の記念に」というつもりで書かれているのだと思う。
さて難しいのが書道教室の先生方である。
この方々は一様にプライドが高い。
「こんなのはダメよ」と、人の作品をさらっとけなす。流石に本人の前では言わないが。酷い人になると展示会の準備中に、自分の作品を見栄えのする場所に移動させてほしいなどと言い出す始末である。それを直接師匠に言うのは憚られるのか、年長の方を通して間接的に伝えようとしていたとのこと。それを聞いた人達は皆呆れてしまった。
展示作品の配列というのは師匠が全て決めるのだが、これがなかなか難しい。(聞いたわけではないが)基本的には入り口のすぐの場所には参加作品の目玉というか、「これぞ!」というものを持ってくる。1点だけでは弱いのでそこから数点は素晴らしいものが続く。しかしいくら上手くても書体が同じであったり、大きさも同じ物が幾つも続けば飽きるので草書の次は楷書、次に行書を置いたら次は篆刻、という具合でアクセントをつける。また初めは上手いが見ていくうちにだんだん冴えなくなった、ということでは面白くないので途中にも見事なものを置く。その場所はおそらく部屋のコーナー部と壁面の中央になると思う。(これはあくまで師匠のやり方を見た上での僕の推測。)
したがって全ての作品をバランスよく配置して一つの展示会になるのだから、個人の要望など入る余地はない。
仲の良い人達と話していてなるほどと思ったのだが、こうしたプライドの高い方は失礼ながら女性に多い。そしてその人達の共通点というのが、(恐らく良家のお嬢様で)働いたことがない。もしくはとても短期間しか働いたことがないということである。つまり大学か短大を卒業してすぐ結婚された女性で、結婚してもパートに出たりする必要のないご主人をお持ちであり、子供の頃から趣味で書道をやっていて、結婚後もそのまま書道を続けることができる環境にあった方々ということである。一応書いておくがそういう人が皆そうだという気は全くない。ただ我々の会においてのその共通点には妙に納得してしまった。
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安倍総理が辞任してしまった。なんと唐突な。なんで今なのかよくわからん。
さて、名古屋の中国領事館が最近総領事館に昇格したとのこと。
ふーん。
その総領事館の近所の中華料理店で中国人の師匠と食事をしていたところ、店員から
「中国総領事館になってから警察がずーっと警備してますよ。近所の人達は治安が良くなるって喜んでますよ。」
結構なことなんだが、その警察は一体 「誰から」「誰を」守っているんだか?
本題の書道展。今回の出品作はこの2点。
上:夜雨寄北(夜雨北に寄す) 李商隠
下:憫農(農を憫れむ) 李紳
その他目についたものはこんな感じ
妙に艶っぽい。そのあとで次を見ると
ただのエロ親父
次は美味しそう
いかにも大陸的だと思うんだよね。以前にも似たようなことを書いたけど、なんか中華鍋に油ぶち込んで豪快な火でチャーハン作ってる感じ。
反対に日本独自の書は「かな」であるわけで、まさにお吸い物でダシは鰹節やら干し椎茸の戻し汁を使ってるみたいな。(←食い物の例えしかできんのかい(笑))
これは筆の使い方が個性的。
こんなのもいいねー。
以前から「美しい」とはどういうことか?というテーマを持っているんだけど、先日黄金比や白銀比の本を読んでいたら相当面白かったので色々な物を測定してみようと思っている。これはこんな「書」にも当てはまるのだろうか?素朴な疑問。
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今年も恒例の書道篆刻交流展に参加し、今日はその準備で名古屋まで行ってきました。今回はいつもの愛知芸術文化センター(県美術館)ではなく、名古屋市博物館にて明日4日(火)から9日(日)までの開催です。入場無料ですのでお近くで時間のある方はどうぞお越し下さい。
今回実は少し気が進まないのが最終日のパーティー。
ここにゲストとして、なんと某野党所属の国会議員がまかりこしまいらせらるる(?)らしく、挨拶はきっとお決まりの
「日○友好のために、皆さん頑張りましょう!」
で締めくくられるんでしょう。はいはい、ぐらいのもんです。
ところがよく見れば、○国の領事館からも誰やら来るらしい。
まあ、どうせテーブルが違うから深い話も無いだろうし、向こうもTPOが分かっていれば政治絡みの話なんかはしないでしょう。
でも、もしも、万が一
「貴方は首相の靖国参拝を支持しますか?」
なんて聞かれたらどうしよう。(ワクワク)
「一緒に靖国神社参拝ツアーに参加しませんか?」
多分Yes・Noをすっ飛ばして、そんなことを即座に言ってしまいそうな自分が怖い。その上勢い余って
「参拝しているところで一緒に写真撮りましょうね。デジカメで撮影してそのデータをメールで○国○産党政府にお送りしますね。全国人民代表大会の事務局あたりでもいいですね。きっと僕は日○友好の親善大使に選ばれちゃったりして。あなたも駐日大使に大出世間違いなしですよ~~~。」
なんて言ったりしたらどうなるんかな。
帰りの車の中でそんな事考えてました。
ちなみに僕は日○友好に賛成ですが、○国が今のままでは無理でしょう。少なくとも「民主国家」にならない限り。ところが○国は歴史上、体制が崩壊すると旧体制の権力者は新体制側から徹底的に虐殺されるので、現在の権力者は自分の命を守るために必死になって国をまとめ反乱・暴動を押さえ込まなくてはならない。「反日」はそのための有効手段なので簡単には引っ込められない。したがっていくら口先だけで互いに「日○友好」を叫んでみても、割を食うのはいつも日本人なんですね~。
「敬天愛人」は数年前に書いたけど、来年あたり「愛国無罪」はどうでしょう?
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このところ毎年恒例のお習字三昧の日々で、かなりパワーを使いまくってる。
ようやくまずまずの物ができたので、教室で師匠に見せるために持参した。師匠を迎えに駅で待っていたのだがなかなか現れない。メールで問い合わせる。
「あと10部です」
との返信。
はいはい、あと「10分」ね。わかりましたよー(笑)、また返信したところ、さらにまた来た。
「ごめんなさい、人事事故です。」
ぶっ
車の中で一人で吹いた(笑いごとではありません)。相変わらず意表をつく日本語だ。
さて今年の制作物は草書と隷書を1点ずつ。
草書らしい草書は実は初めて作品にしてみた。うーん・・・・・・・なんつーか、今の僕には水っぽすぎるなあ。
書体は基本的に、楷・行・草・篆・隷 の5種類に分けられるが、楷書と行書、行書と草書は厳密に線が引かれて分けられるものではなく、行書に近い楷書もあれば、草書に近い行書もある。まあステーキの焼き方みたいなもんだわ。(みでぃあむれあーとかさ)
草書というのは(上手い下手とは別にして)川の水が流れるように、すぅーと書けてしまう。勿論盛り上がるところは何カ所かあるのだが、そういう起伏を出さないのがいいのかなあとか思う。
これに対し、楷書は規則正しく朝起きて9時から仕事を始めて、12時からは1時間昼食と休憩をとり、10時と3時には休憩をして5時になったらピタッと終了する。これを何年も続ける真面目な感じ。
で、僕が一番好きなのは多少草書に近い行書。はっきり言って「魅せる」書だと思う。テクニックを「これでもか!」と出すには一番いい。何と言っても歌舞伎でいうところの「見得を切る」ところも多い。従って今まで書いたものの多くがこの行書である。もっとも最近はこの「魅せる」というのがいくぶん「いやらしい」とも思うようにもなってきた。多分料理で言えば、カレーライスや激辛ラーメンみたいなもんかもしれない。草書はどうかといえば、「お吸い物のダシは何だろう?」「このほのかな香りは何だろう?」みたいなもんか。まあ草書よりさらに「水っぽい」のは「かな」なのだが。
ところが篆書・隷書は、個人のカラーは別にすると書体としてはほとんど固定化されているように思える。
そんな隷書を書いたのがこれ。
左が手本で中央と右は僕が書いたやつ。見慣れていない方は上手いんだか下手なんだか分からないと思うけど、何となく規則性があるのは理解していただけると思う。料理で言うと何だろう?寿司のにぎりを四角く詰めたみたいな感じかな。(なんじゃそりゃ)
画像を編集してみたら、色の反転機能があったのでやってみた。
なんと拓本が出来てしまった。こっちほうが上手く見える。
すげぇ疲れた。
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今日は篆刻と絵画。
篆刻とは石を彫って印鑑を作ったもの。
芸が細かい。右の黒いものはボールペン。印の大きさは1.0cm×1.0cmほど。
これはさらに芸が細かい。 同じく1.5cm×1.0cmほど
これは少し大きいが、それを差し引いてもすごい。
篆刻については大して詳しくないのだが、最初は石選びから始まる。素晴らしい石を手に入れたら彫り始めるのだが、何せ1個しかないので失敗できない。緊張するだろうなとは容易にわかる。何より小さいからねえ。
次は絵画
写真ではわかりにくかも。綺麗でしたよ。
これはいかにも中国風の絵画。ポイントポイントだけを見ると子供の落書きにも見えるのに、全体でみるとまとまっているんだな。
これは典型的な山水画。墨の濃淡はあれど、墨の乗っていない箇所はおそらく無い。
芸術はさまざまなものがあって楽しい。
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芸術にはいろいろな種類がある。
書道もまた芸術であることを、僕は疑ってはいない。
ところで、「書」というものは文字を材料にした芸術である。しかしその「文字」は人間が発明した意志の伝達・記録のための道具なわけである。
さて、霊界には人間界には無い色彩はいくらでもあり、人間界には無い音階もあるという。また霊界での生活が長くなると地上での記憶が薄れていくという。また他人とのコミュニケーションは言葉を用いるわけではないというし、思えばその場所へ行くこともあっという間らしい。ということは紙に文字を書いてそれを運搬する、などということは必要ないということになる。
ということは、音楽、絵画といった芸術は霊界でも変わらず存在するのだろうが、書道というものは向上するに従い消滅するのかもしれない。
もしそうなら、すげー寂しい。(涙)
でもこの世にいる限り書道は芸術なので、プロになれるかなれないかは分からなくても、情熱は傾け続けるつもり。
というわけで、今年も師匠が主催する展覧会に2点出品しました。(そのうちの1点)
うちの場合は選考を行って展示しているわけではなく、弟子が皆出品する。つまり始めたばかりのほとんど素人の方もいれば、自分で教室を開いて生徒を持っている人もいて、レベル的にはばらばら。しかし師匠が中国人で向こうでは名の知れた人なので、中国の芸術家の友人に声をかければすぐに作品を出品してくれる。先方のレベルをはかるのは僕には難しいが、肩書きとしては
「国家1級美術師」
「中国美術家協会会員」
「原中国書法家協会会員」
「中国西冷印社社員」(←実はこれは凄い。ここへはなかなか入会できないらしい)
とかあるんで強者ぞろいかもしれない。
少なくとも作品を見るかぎり
「自分には無理」
ということは分かる。(それがまた悲しい)
率直に言って、中国人作家の出品作を見るだけで十分価値があると思う。それが我々の団体の売りでもある。
数回に分けて今回の展覧会について書きます。
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ついに
デ キ タ !!
今年の作品!昨日の22日に師匠に提出してきました。おそらくこの10年で一番気合いの入れ方だったでしょう。あとは表装だけ。
現在脳の一部がほとんど放心状態。
しかし今日は愛知県芸術文化センター(展覧会やるところ)の毎日書道展へ行って来ました。たまたま知人が出品されておりチケットを頂いた上、今日は仕事も余裕があったので足を延ばしました。
そこでの作品をいくつか紹介。(こういうのっていいのかなあ、と少し不安)
素敵①
素敵③
何が良いのかって、何て書いてあるのかさっぱりわからんところがいいんですよ~。
これ、個人的に気に入ったもの。各文字の左上が墨が濃く、右下がかすれて薄い。さらに上半分が下半分より濃く重い。まるで右下から光りが当たっているようです。
でも、このあたりはよくわからん。
ここまではよしとしよう。
でもさ
でもね
だけどさ
いくら僕がまだ未熟とはいってもよ
これはわからんなあ。
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どなたか理解出来る方、教えてください。(´ヘ`;) う~ん・・・
(出品者の方、ごめんね)
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ようやくココログ復活。トラブル多すぎ。本気で引っ越し先を検討すべきかな?
今年も展覧会に出品する書を書く時期です。先日師匠にお願いして手本を書いてもらいました。題材はいつも自分で選びますが、今年は去年に引き続き「陶淵明」の詩から、恐らく一番有名な「帰去来の辞」です。
歸去來兮, 田園將蕪胡不歸。
既自以心爲形役, 奚惆悵而獨悲。
悟已往之不諫, 知來者之可追。
實迷途其未遠, 覺今是而昨非。
舟遙遙以輕, 風飄飄而吹衣。
問征夫以前路, 恨晨光之熹微。
乃瞻衡宇, 載欣載奔。
僮僕歡迎, 稚子候門。
三逕就荒, 松菊猶存。
攜幼入室, 有酒盈樽。
引壺觴以自酌, 眄庭柯以怡顏。
倚南窗以寄傲, 審容膝之易安。
園日渉以成趣, 門雖設而常關。
策扶老以流憩, 時矯首而游觀。
雲無心以出岫, 鳥倦飛而知還。
景翳翳以將入, 撫孤松而盤桓。
(まだありますが、以下略。書の作品は青字部のみ)
帰りなんいざ、田園将に蕪れなんとす、胡ぞ帰らざる
既に自ら心を以って形の役と為す、胡ぞ惆悵として独り悲しまん
己往の諌められざるを悟り、来者の追う可きを知る
實に途に迷うこと其れ未だ遠からず、今の是にして昨の非なりしを覚る
舟は遙遙として以って軽く飃り、風は飄飄として衣を吹く
征夫に問うに前路を以ってし、晨光の喜微なるを恨む
乃ち衡宇を贍て、載ち欽び載ち奔る
童僕歓び迎え、稚子門に候つ
三径荒に就けども、松菊猶存せり
幼を携えて室に入れば、酒有りて樽に盈てり
壺觴を引いて以って自ら酌み 庭柯をみて以って顔を怡ばしむ
南窓によりて以って寄傲し、膝を容るるの安んじ易きを審かにす
園は日々に渉りて以って趣を成し、門は設くと雖も而も常に閉ざせり
杖老を扶けて以って流憩し、時に首を矯げて遥かに観る
雲は無心にして以って岬を出で、鳥は飛ぶことに倦んで還るを知る
景翳翳として以って将に入らんとし、孤松を撫して盤桓す
(以下略)
さあ、早く帰ろうよ。故郷の田園はいまにも荒廃しそうなのに、どうして帰らずにいられようか。みずから求めて精神を肉体の奴隷と化してしまっているのに、ひとりくよくよと嘆き悲しんだところで、どうなるものでもない。過ぎ去ったことは、いまさら悔やんでも仕方がない。これからのことは心掛けひとつでどうにでもなるものだ。人生の進路をたしかに踏み間違えたが、まだそれほど遠くへは来ていない。役人を辞めた今こそが正しく、かつての生活があやまりだったことにやっと気づいた。
舟はゆらゆら揺れて軽く上下して、風はひゅうひゅうと我が衣に吹き付ける。船頭に故郷までの道のりをたずねるが朝の光はまだ弱く、見通しがきかないのが残念なことだ。
(以下、どーんと略)
自分の状況に似ているという以外に、別の視点でもミョーに納得したりします。
僕と同じように展覧会に出品される人は皆同じ師匠から習っているわけですが、大半は僕の両親と同年代かそれ以上の方です。その方々からは褒められる事もあります。
(注:上手下手は相対的なものなので、卑下もしないし天狗にもなっていない、満足もしちゃいないですけど)
「やっぱりねー、同じように展覧会に出品しても、私たちはどうしても引き立て役なのよねー」
「よく言うでしょ『駕籠に乗る人 担ぐ人 その又草履をつくる人』って」
格好悪いですが、この言葉は聞いたことがある程度でした。改めて考えると良い言葉です。人にはそれぞれ役割というものがある、ああそうなんだとひとりで納得していました。でも褒められっぱなしでもくすぐったいので
「でもいろんな側面があると思うんですよね。これについては駕籠に乗る、またこれについては草鞋を作る。みたいな。」
「あら、慰めてくれるのねー、あははは」
待てよ。もしかして、わたくし
「書については駕籠に乗るのは『僕』、担ぐのは『あなた』」
って言ってしまった・・・か?・・・・・・自爆だ-!(自己嫌悪)
以後気をつけます。
出来上がったらまた、写真を載せます。
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書は芸術か?
この論争は古くから長い間あったらしい。詳しくは知らないが、書の芸術性の確立について尽力していただいた先人には深く感謝している。ただ今は他人がどう考えるかはどうでもよい。僕が書という芸術をどう考えるかである。
芸術で無いと言っていた側から見ると、「書」の作品はあまりに短時間でできるからという理由があるらしい。制作するものの大きさにもよるが、絵画を描くならば何ヶ月もかかる場合もあるだろう。彫刻にしても1日2日で出来る物ではない。
と・こ・ろ・が
確かに書の作品は文字数にもよるが、掛け軸にする四文字熟語なら1枚書くにの十秒前後であろう。般若心経を書くならば確かに時間がかかるがそれでも丸1日もかかっていては恐らく、ろくなものは出来ないであろう。逆に時間をかけていてはダメなのだ。キレが必要なのである。
書は絵画と同様の目線で見る芸術とは違うのではないか?何度かそう思った事がある。なんか違うよなー、そう思い続けて僕が出した結論。
「書は目で聴く音楽である。」
あれは音楽のソロ演奏を聴いているのと同じだと思う。点を書き、縦横に線を引き、左右に払う。技術の連続である。そして一度致命的な失敗をしたらその紙での演奏は「失敗」である。修正はきかない。「今のは無かった事にして」はあり得ない。
違う点を挙げればその演奏をそのまま紙面上に保存していける事。部分演奏と全演奏をいっぺんに見ることができる事などか。
要するに一発勝負の「演技」と言えるのではなかろうか。その一度のために延々訓練を続けるのだ。またこれは「料理」と言ってもいいかもしれない。これもまた技術、タイミングの連続であると思う。
目で「見る」事にとらわれるからおかしくなる。耳で「聴く」事も同じだろう。
やはり感じるのが一番か?
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またもや恥ずかしげも無くマイフォトに書の画像を追加しました。
ただし今回は・・・・・前回2点に比べればずいぶんヘタです。
もう一度書きます。ぜんっぜん、いけてません。
それでもあえて載せます。説明は後ほど。
まず物は何かと言いますと、三国志をご存知の方は多いでしょう。その中で「蜀」の国の丞相であった、諸葛亮が書いた「出師の表(前)」です。(もちろん臨書です)
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前出師の表
臣亮もうす。
先帝、創業いまだ半ばならずして、中道に崩姐せり。今天下三分し益州疲弊す。これ誠に危急存亡の秋(とき)なり。・・・・・
(吉川英治 「三国志」より引用)
長いので冒頭部分のみです。(著作権は諸葛亮にあると思われますが、詳細不明です。)
時間のある方は一度お読みになるのもよろしいかと。華美な表現は少なく、私心なく、切々と訴えかけます。
名文といわれます。
* * * * * * * * *
これを書いたのは二十歳か二一歳か、そのころです。半紙を横にして15枚繋いで書きました。これまで書に縁の薄かった方から見ればそこそこに見えるかもしれませんが、書いた本人が見ますと情けなくてため息が出てしまいます。その程度の代物です。何が気に入らないかといえば、全部なのですが、特に
「俺って、うまいじゃーん。」
なんて気分で書いていたその頃を思い出すわけです。しかし「ヘタでした。アホでした。」そう今は思える。これが大事だと思うのです。それが少しは上手くなった、ちょっとは成長したという証なわけです。ですから今後修練を積んだ暁には、ギャラリーでいい気になって公開した先の書についても同様に「情けない物」を作ったものだ、という感想が生まれなければなりません。段位だの師範だのといった肩書きはどうでもよいのです。(大した物は持ってないし)
翻ってこのブログで勝手気儘な事を書いています。上記の理屈で言えば将来読み返した時、多少なりとも「くだらない事を書いていた時もあったな」とか「分かった気になってよくここまで書いたな」という感想が持てるようになっていないといけないと思うわけです。もちろん過去に書いた物全てを否定するような場合はアタマがいかれていると思います。では今が正常だと証明できるのかと言われるとまた困りますが、価値観が違う人から見れば、とっくに「どうかしている」と見られているのだろうな、と常々考えています。
霊性進化に比べれば書の上達などは光の速さでしょう。同じ土俵で語れるようなものではないことは百も承知です。しかしながらこのブログにおいて僕は、将来読み返すであろう「出師の表」を書いているつもりです。
なお以前に「書をやるなら書いた物を保存しておくといいですよ。」と書いた手前自分も出すべきだろうと思っておりましたので、その意味も込めてアップしてみました。
さて、今回はかっこつけすぎましたね。本日はこれまで!
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いつもご訪問ありがとうございます。
マイフォトに写真を追加しました。またお習字もので恐縮です。
空海が最澄にあてた手紙で「風信帖」と呼ばれるものです。4年前に書きました。以前に名古屋市博物館で開催された「国宝 弘法大師空海展」で本物を見ました。書を目指す者としては1回は書きたいと思う題材です。(もう書いてしまっていいのか~?)
書は年に1枚か2枚を掛軸にして残しています。たまに古い物を引っ張り出したりしますが、数年前のものでも懐かしいものです。もし書道を始められている方がいらっしゃれば、1回の練習に1枚でも月に1枚でも保存されることをお勧めします。1日、2日では分かりませんが、後になって見直してみると自分の成長が分かります。
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書の話をたびたび話題にしている。書に限らず芸術家というものは、元来孤独になりやすく、また傲慢になりやすい人種だと思う。
とにかく評価基準が曖昧である。見る人、聞く人、感じる人次第である。と言っても、書の作品を掛け軸にする場合、清書を書き上げた数枚の中から師匠に選んでもらうのだが、大抵自分と同じものを選ぶし、書道仲間で誰かの作品を品定めする場合、No1、2に選ぶの物は皆同じ物を指す事も多いので、判断基準はあるのである。(こういう時に意見が合ったりするのはある種の快感がある。)
しかし僕も偉そうに書がどうのと書いているが、音楽の演奏を聞き比べてもでどれがどう素晴らしいなんてことは言えないし、現代アートで色々なオブジェなどを見たこともあるが、「○×△をイメージしました」と書かれてあってもこれまた分からない。
つまり個人の主観とその知識に関わるため、客観的な判断基準など作りようもないのである。だからある分野の芸術で全くのオリジナルを創作する天才が出現しても、周囲のその他大勢がついていけないため、誰もそれを認めることができない。また逆に周囲から絶賛されても、自分ではまだ納得出来ないがそれをいかんともし難い場合もある。だから天才は苦悩し、孤独になると思う。
また周囲からの評価が高まりその権威が頂点に達してしまうと、天狗になりかねない。その人が素晴らしいといえば誰もがそうなのかと思うし、ダメだと言えばまたそうなる。頂点を競う二人がいれば仲が悪くなりやすい。実際、書の世界は関東と関西で大きなグループがあるが、日展などで顔をあわせる大先生も東西で険悪らしい。写真をとってもわざと端と端に立っているのも見た。そして相手の作品をこき下ろすらしい。かつてある展覧会にその先生方がたまたま同じ日に入れ違いで訪問されたことがあった。僕の師匠は双方とも案内していたが、二人目が帰られてから「きわどかったよー」と本当に冷や汗をかいていた。
結局自分が最高でほかのものを認めたくないのである。この傲慢さは例えようもない。権威は権力も併せ持つことになる。人間は一度その権力を持つとなかなか手放せないようである。そしてその権力の下へ大勢の人が集まる。○○先生の弟子である事をことさら口にする人もいる。とてもドロドロしているのだ。
それに引き替え、町の書道塾などで小学生が一生懸命に字を書いているのを見るのは大変清々しい。先生も別段どこかで名を売ろうなどとも考えておられず、月謝をもらってもボランティア同様と思えるような活動をされている方もいらっしゃる。
僕はいずれ子供のための書道教室か、もしくは老人ホームでボランティアの書道教室でもしたいと思っている。
いつになることやら。
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もう一つすぴこんの話のつもりでしたが、前回の文章を読んでいて自分で気分が悪くなったので、また気が向いた時にします。
そんなことで今回は少しお口直し(になることを願って)
僕と同じ先生に書を習っている女性がいる。残念ながら 70歳くらいの方なのだがこの方、書は趣味でやっており本業は「琴」の先生なのである。僕はよく知らないが琴にも流派が様々ある。そして名古屋で流派を越えた演奏会があるときはその方が流派を代表して出られるそうなのだ。
その先生が琴について面白い話をしてくださった。
琴を始めるなら、デパートで売ってる10万やそこらのではだめで、最低でも300万は出さなくてはいけないそうだ。こだわりはじめれば際限がない事は確かにわかる。しかしとても趣味の範囲とは言えないと思うのだが。(趣味ならやるなということか・・・)
琴にもいろんなタイプがあるそうだ。男の人のは大抵真っ黒で何の飾りもないそうだ。これはこれで渋いという。これに対しお金持ちのお嬢様がそのまま大人になった人の琴は、ピカピカの飾りを付け象牙なども付けるという。先に書いた流派を越えた演奏会では、自分の琴も素晴らしいが、そのクラスの琴がずらりと並んだ舞台はそれはそれは壮観だったと言っておられた。
この先生も当然かつて師匠について琴を勉強したのだが、その師が亡くなる際に「形見分け」として師のとっておきの琴を頂いたそうである。もう今ではとても値が付けられない代物だそうだ。しかし彼女はため息混じりにこう言った。
「でもね、私はそれが弾けないのよ。」
これまでさんざん練習し、流派の顔とさえいえる位置にまでのぼるほどの腕前を持ちながら、それでもその琴が求める技量にとどかず、師匠の音が出せないと嘆いているのだ。すごい向上心だと思った。
書においては1つ思い当たる。もちろん筆である。
僕は今現在いつでも使える筆は大小含め10本ほどある。しかしここ一番で書く場合の筆はたった1本しかない。使いやすいため練習でも使いすぎ、痛み始めている。だからこの筆に近いものを必死に探してきたが、なかなか思うようなものがない。これまで新しいものを買いながらがっかりしてきた。金額は結構する筆である。失敗だと何度も思った。しかしよく考えるとこれは、自分の腕前に一番フィットする筆が一番書きやすいということなのだ。だからどれほど素晴らしい筆であっても扱いきれていないということなのかもしれない。しかし使ってみなければ分からない。結構バクチなのだ。
人が道具を選ぶのだが、道具もまた人を選ぶ。
(・・・カイザーナックルなんてのもあったな)
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今日の内容は真理かどうかという事ではなく、勝手に自分で思っていることである。
・・・・いつもそうか。
賞状をじっくりご覧になったことがあるだろうか。 パソコンから印刷したものではなく、実際に毛筆で書かれたものだとよくわかる。学生時代、僕が書をやっている事を知っている知人に頼まれて、一度だけ書いたことがある。しかしそれ以後は一切書いたことはない。
なぜか?これが大変に難しいのである。
もう一度書く。めちゃくちゃ難しいのだ。
何が難しいか?
まずバランスをとるのが難しい。どんな賞状でも見てもらえばすぐ分かるが、文章中の文字の大きさが違う。単純に同じマスにぴったりの大きさで書けば良さそうなものだが、そうすると全体で見たとき、目の錯覚で非常にバランスが悪く写る。画数の多い文字(漢字)は小さく見え、少ない文字(ひらがな)は大きく見える。だから漢字はひらがなより大きく書かれている。そしてこれを考慮して1行の文字数を決めなくてはならない。
その上さらに難しい事がある。これは妥当な説明ができるか不安であるが、簡単に言うと「我が出過ぎてしまう」と言えばいいだろうか。
賞状というのは賞を取った人を褒め讃えるためのものである。そしてその内容を「文字」で文章にしているわけである。その「文字」が自己主張して前へ出過ぎてしまうのだ。他者を讃える紙の上で、「どうだ俺の字は上手いだろう」というような鼻持ちならない文字は「公害」でしかないのである。だからといって機械の印刷(ほとんどそうだが)になると、人間の温もりというものが全く無くなってしまう。そうなるとまた味気ない。このバランスこそが難題なのだ。どんどん我を昇華(?)させ、減らしていき、受賞者を讃えることのみに存在意義を見いだす文字でないといけない。
日展の展覧会を見に行くことがある。どれもパンチの効いたものが多い。受賞レースなのだから「オレが、オレが」となるのは当然である。それを否定するようなことを言うつもりは毛頭ない。しかし、どんな賞も受けることなく、他者を賞賛する1つのピースとしか扱われない「美しい字」もあるのである。
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このブログ開始時にも、よそのサイトでも少し書いたりしたが、僕は書道をやってきた。
そして今も続けている。社会人になってからはなかなか時間もままならないが、細々とやってきた。今回少しお披露目。
僕は気や波動が分かるわけで はない。ミュウさんによれば波動は相対的に感じられるという。つまり自分が基準でそれより上か下かであるらしい。
こんな僕の書はどうか。これを見て僕より上手い多くの方はまだまだだと思われるであろうし、書の初心者の方は上手いと思われるかもしれない。また興味のない方は何が面白いのかと思われるだろう。そんなことを考えたりした。
書をやっているとはいえ、別に自分のオリジナルを創作しているわけではない。師匠に手本を書いてもらってそれを見、真似て書いているだけのことである。とはいえそう簡単にいくわけでもなく、部分的に半紙に書き、練習し続けるのである。これは毎年1回名古屋で開催しているグループ展示会に出したもので、締め切り前1ヶ月の週末はほとんどこれを書いていた。
さて、芸事というものは偉大な先生に弟子入りしたとしても、またすばらしい手本を手にしたからといっても、別に当人の腕は変わらない。
当たり前である。
上手くなるには自分が練習して、練習して、練習しまくるしかないのである。
この写真の書は漢詩である。陶 淵明という晋(三国志の時代の後)の人で「帰園田居(園田の居に帰る)」という漢詩である。彼は公務員をしていたものの自然を愛する気持ちが強く、脱サラして故郷で隠棲してしまった人である。誰かさんと同じ心境である。別に隠居するわけではないが。
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