2007年3月11日 (日)

守りきれなくて逆に訴えられる

東京大空襲、国を提訴 被災者ら112人(朝日新聞)
2007年03月09日13時33分
 62年前、一夜のうちに約10万人の命が奪われたとされる東京大空襲の被災者や遺族112人が、国に総額12億3200万円の損害賠償と謝罪を求める集団訴訟を9日、東京地裁に起こした。空襲被害を受けた民間人として初の集団訴訟。原告側は「民間人被害者に何も援助をせず、切り捨て放置した国の責任を問う」として、国家補償が整備された旧軍人・軍属と一般戦災者との格差の是非を問い直す。遺族を含めた原告の平均年齢は74歳で、最高齢は88歳。

 原告側は「東京大空襲が国際法違反の無差別爆撃だったことを裁判所に認めさせ、戦争を始めた政府の責任を追及したい」として、旧日本軍が中国・重慶で繰り返した爆撃などが米軍の作戦に影響を与えた点についても責任を明確にしたい考えだ。一般戦災者への補償や死亡者の追跡調査、追悼施設建設も求める。

 戦傷病者戦没者遺族等援護法は、軍人・軍属で障害を負った人やその遺族に年金を支給するよう定めている。同法を一般戦災者にも適用しないのは違法として、名古屋空襲の被災者2人が国家賠償を求めた訴訟は、最高裁で87年に敗訴が確定。一、二審判決は「援護法の趣旨は国の使用者責任で補償すること。民間被災者との差別には合理的理由がある」とした。

 中山武敏弁護団長は「空襲については被害者すべてを救済するのが世界の『人権水準』。一般戦災者を切り捨てた国による差別が今も続く苦しみを耐え難いものにしている」と訴えている。
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よく分からん。

被害者が「日本」で、訴えているのが「日本」で、訴えられているのも「日本」なわけだな。

アメリカってどこにも出てこないのね。

>「東京大空襲が国際法違反の無差別爆撃だったことを裁判所に認めさせ、戦争を始めた政府の責任を
>追及したい」

前半は全く同意する。しかしそれがなぜ「戦争を始めた政府の責任を追及したい」という流れになるのか不思議だ。そもそもその文章ではいつの間にか対象にしている相手がすり替わってますけど。

これがいわゆる「WGIP」ってやつか。

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2007年1月 6日 (土)

あけましておめでとうございます

ずいぶん遅いですが、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

今日は昨年から楽しみにしていた「白虎隊」が放映されます。1986年に日本テレビで放映され、それを見たときに初めて本格的に知ったわけですが、あのときも良かった。

僕は歴史がとても好きですが、中でも幕末はもっとも面白いと思っています。倒幕・佐幕 は関係無く、どちらの本を読んでも、どちらにも共感してしまいます。

河合継之助と長岡藩なんかも面白いと思うんだけど。どこかの局でやらんかなあ。

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2005年12月 5日 (月)

幕末の人々

僕は歴史小説が好きで今までいろんなものを読んできた。時代的に一番好きなのは

「幕末」である。

読んだ本の中では司馬遼太郎が一番多いが、「司馬史観」は脇へ置いておく。司馬遼太郎は時代の中の動乱期に焦点をあてたものが多い。日本史上の動乱期といえば、源平、南北朝、戦国、幕末、(昭和も入るが)などだと思うが、前の三時代は日本国内の話(日本国という意識は薄かったかもしれない)。幕末は日本と海外との関係が重要になってくる。この時代になって下級武士や庶民もようやく日本はどうすべきかという事を考え始めたのかなと思う。

自分の領土を広げるといった単純明快な動機ではなく、日本を守るにはどうしたらよいのかということが基準になっているところが違うと思う。(もちろん大名のお家大事というのもそう言えなくもないが)金儲けとか、名を上げるとかそんなものは度外視して日本の将来を憂え、行動している。常に暗殺される危険にさらされながら。

薩摩藩や長州藩は幕府を倒して自分たちがイニシアチブを取りたい、という思いもあったようだが、当時の日本の政治体制では欧米の植民地となるのは必至であったため、開国した幕府を糾弾しながらも何とか早く近代化しなくてはならないと考えていたはずだ。近隣のアジアを見ればすぐ分かるが、ヨーロッパ諸国が我先にと植民地化していった。片手に銃を片手にバイブルを持ちながら。そんな混迷の時代に一番大局的な「眼」を持っていたのは勝海舟と坂本竜馬、少し前だと吉田松陰などがあげられるのではないだろうか。

(余談になるが。小学校5年の時、図書館で伝記の「勝海舟」を借りた。帰宅前のHRで担任がそれを見つけ、

「すばらしい!是非読め!その人はすごいぞ!」

僕は何がなんだかさっぱり分からなかった。信長、秀吉・・・の続きで侍の伝記だと思って借りていましたから。彼が凄いと分かったのはしばらく後になってからだったな。)

幕末で一番好きなのはやはり坂本竜馬だろうか。桂小五郎、西郷隆盛、大久保利通(現外相・麻生太郎氏のひいひい(?)おじいちゃん)などもいい。もちろん勝海舟、榎本武明なんかはもっと詳しく読んでみたいと思う。

坂本竜馬はいいねえ。最近の研究では薩長同盟への関与はそれほど大きくなかったのではないか、なんて事をNHKでやっていたが、それにしてもどこにも所属せずに成し遂げたその仕事はあまりに偉大だと思う。

シルバーバーチは「人間が地上に生まれて何をなすべきか、魂は分かっています。」と言っていたはずだ。この幕末の時代に勤皇・佐幕を問わず、何か使命感を感じながら行動した人は多かったのではないかと思う。霊訓を引き合いに出すまでもなく、

「天がこの国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命が終わったとき惜しげもなく天へ召しかえした。」司馬遼太郎の「竜馬が行く」より  (・・・・・・こういう引用は問題ないのかな。)

無神論者と思われる司馬遼太郎氏がそう書いている。

これ当たっているんじゃないの?

幕末に活躍した人物についてこれからも書きたいと思う。

 なお読んだ本は歴史小説が大半であるため、著者のイメージがそのまま入ってくることは否めません
。セリフもほとんど著者が作っているようなものだから、学問的な考察とはズレが生じる部分もあるとは思いますが、その辺はご容赦よろしく。

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2005年10月29日 (土)

女系天皇で皇室廃止 ?!

最近テレビでも話題になっている「女性天皇」
愛子様で女性天皇の誕生だ!ばんざーい!

 別にいいじゃん、と僕も軽く考えていた。ところがこちらのぼやきくっくりさんのブログ(10/27)を拝見して、実はとんでもない問題だということが分かった。ここで改めて説明は書かないが、お読みいただければすぐ分かるはずだ。

 僕も初めて知ったのだが「女性天皇」と「女系天皇」というものがあり、これらは似ているが全く意味が違う。詳しくは こちらを参考に。Wikipedia 女系天皇

 そして最も危ぶまれるのは、女系天皇(男性もあり得るわけだ)となったのち「正当性がない」という理由で皇室廃止論が出てくるだろうというのだ。(とーぜん左翼一派からのキャンペーン)これはまずいんでないの。
 スピを知る人は、地上での肩書きなんぞ後になればどうでもよい、と言われるかもしれないが、僕は国家レベルで皇室があるという事実は大変な意味があると思う。日本の皇室の歴史は2000年以上である。中国は4000年の歴史があるなどというが、あそこの王朝は滅亡のたびに皆殺しにし文化風俗も徹底的にぶち壊すものだから、中国王室の血脈などその王朝の間だけの限定である。最近でも悪名高い「文化大革命」という大虐殺と大量破壊なんぞするから古代の遺産と呼べるものも少ない。そう考えれば日本の皇室がいかに貴重な血脈かがわかる。そしてどれほど優秀な外交官にもできない役割を皇室は担ってくださる。
 もしかしたら何百年か先に人間の本質が霊だということが常識になった時、皇室という特別な身分に意味は無いという意見が出てくるかもしれないが、この先暫くは大きすぎる損失になると思う。

 この問題は愛子様に弟が出来ればすべてうまく収まる。

どうだ偉大な霊よ、日本の皇室に男子として生まれてもう一度修行してみないか?
相当な成長が期待できるんではないだろうか?

          来世、僕? 

ちょ、ちょっと遠慮させて頂きます。いろんな意味で潰れてしまいそうだから。 

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2005年10月24日 (月)

薩摩義士

 仕事で週に2回ほど長良川を南北に往復している。河口にはあの長良川河口堰がある。そこから上流へ車で15分ほどのところに千本松原と呼ばれる松並木がある。この松が植えられたのは江戸時代、薩摩藩士の手によるものである。

 江戸時代まで木曽三川が伊勢湾に流れ込む終点ではその3本の川が入り組み、少し大雨が降れば即氾濫となり住民を苦しめていた。徳川幕府はこれを治めるべく、河川工事を行うことを決定した。しかし幕府は何もせず他藩に命じるだけである。白羽の矢が立ったのは九州鹿児島は薩摩藩である。これは徳川家にとって関ヶ原の合戦で西軍につき敵に回った外様大名のため仮想敵国とみなしており、その財力を削ぐためといわれる。
 だいたい日本の中央部と九州の南端である。薩摩藩ではこれを拒否して幕府と戦おうという意見もでたらしいが、家老平田靱負(ゆきえ)の「縁もゆかりもない他藩であるが、同じ日本ではないか。美濃の人たちを助け、薩摩魂を見せよう。」という発言で幕命を承諾することになった。その責任者は当の家老平田靱負である。(明治維新ではこの薩摩と長州を中心とした勢力が幕藩体制をひっくり返したのは歴史の皮肉である。)

 この事業は大変な難工事であった。さらに再三にわたり幕府側の露骨な妨害もあったらしい。それが分かっても何も言うことができない薩摩藩士は切腹して抗議するものも出た。工事が完了するまでに割腹して果てた薩摩藩士は51名、病死者33名である。
 広範囲に及ぶこの河川工事において最も困難を極めたのは「油島の締め切り工事」である。大きな中州と中州を埋め立てて繋ぎ堤防にするのである。彼らはそれをやりとげた後、その堤防に薩摩から取り寄せた松の苗を植えた。それが現在の千本松原である。

住み慣れし 里も今更名残にて 立ちぞわずらう 美濃の大牧

家老平田靱負の辞世の句である。彼は工事完了後、全ての責任を一身に背負い切腹して果てた。
 
 千本松原には犠牲者をまつるための治水神社があり、さらに木曽三川公園が作られ観光名所ともなっている。彼らは「薩摩義士」と呼ばれ、僕が学んだ岐阜の小学校では社会科の教科書の副読本に大きく取り上げられていた。

 車を運転中ここを通るたびいつも思う。悔しかったであろうし、1日も早く故郷へ帰りたかったであろうし、つらい仕事であったと思う。今でもその堤は生きている。それも国道1号線へぶつかる道である。そのおかげで僕は仕事ができる。
 岐阜県民は彼らへの感謝の心を忘れてはならない。

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