2006年5月11日 (木)

武道とケンカはそっくりさん

 今日もまたラジオからのネタ。

「空手の道場や剣道の道場がありますよね。子供達はみな稽古をして、終わったら全員でモップや雑巾で道場を掃除するでしょう。普通の事ですよね。でもある親は違うんですね。

『うちの子供になぜ掃除をさせるのですか。掃除をさせるために月謝を払っているわけではありません。』

そう言われるんですね。そういうのも全て引っくるめて修行じゃないんでしょうか?」

 

武道をやる目的は、武道には無い。(少し言い過ぎ)

では何の為か?     

決まっている。

身体の鍛錬を通して、その奥にある心を磨くためである。武道が礼に始まり礼に終わると言われるのはそのためだ。

 そこを間違えると武道はただのケンカの道具になりさがる。ボクシングの3兄弟が良い例である。まあテレビで見ただけの印象なので一概には言い切れないが、彼らの言動には対戦相手への敬意は見られない。

 剣道でも形があり、技がある。勝負に勝つために一生懸命練習する。練習中、試合中は心を磨くという意識は大人でさえ恐らく無い。しかし「強い」事が最上の価値であると考えている剣道家はほとんどいないのではないかと思う。

そういう人間は続かない。 

保護者が子供に武道を学ばせようとするときの理由は様々だ。割に多いのがこのへん。
・体が弱いから鍛えるため。
・礼儀を身につけさせるため。
ところが暫くすると「勝負」にしか目がいかなくなる。

武道をやっても、武道だけが上達したのではヤ○ザと変わらない。

 ついでと言ってはなんだが、韓国のテコンドー。
別にオリジナルではない。創始者が日本で空手を学びそれを韓国に持って帰り、「うちにもこんな武道があるぞ。」と言い出して始めただけ。悪く言えば劣化コピー。それが今やオリンピック競技である。今は剣道が同じ危機に瀕している。

常に表面だけのマネである。どうせなら「心」も全部コピーしろ。

ハングル語には「恥」という単語は無いのか。


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2006年1月19日 (木)

剣道の心

 剣道において段位とは強さを示すものではない。
 
 
 
 
が、実力が無くては当然昇段はかなわない。つまり(強い事)=(実力がある事)ではない。
 
 学生時代、師範からこう教えられた。
 
「打って勝つな」
「勝って打て」
 
ある程度修練を積めば、相手の実力というものは構え合っただけで分かる。言葉にすれば「気迫」・「威圧感」としか言いようがない。実力とはスピード、スタミナ、腕力、瞬発力といった数値的に計測できるものの他にもたくさんあり、それらの占めるウェイトの方が大きいかもしれない。この気迫の違いで動く前に勝敗が互いに感じられる事も多い。
 筋力を付けたり、スタミナを付けたりするためには具体的な方法がある。しかし気迫を強くする修行というものは誰も知らない。毎日の修行の中でいつの間にか身に付く。また誰もが多かれ少なかれ元々持っている物だとも思う。気迫とは怒りではない。剣道は武道であり極端な話かつての殺し合いの技術であったといえる。だからといって気迫は殺意ではない。「やる気」と言っても頷ける部分も多いと思う。
 
 
 
 柔道はすでにワールドワイドな競技でありオリンピック種目でもある。剣道は世界大会などはあるが、柔道に比べれば遙かにマイナーな競技である。僕個人としては別に無理をして世界中に広める必要は無いと思っている。柔道は世界に広まり、多くの人が取り組んでいる。それは大変良いことだと思う。ただ・・・何か無くしてしまった物があるのではないかと思うときがある。
  剣道では勝ったとき、1本取ったときに「ガッツポーズをとる」行為は許されない。それを行えば取った1本は取り消される。僕も実際に試合の際、相手のその行為によって取られた1本が取り消された経験がある。なぜか?
 
それはガッツポーズは敗者を貶める行為である、と考えるからである。
 
本来は殺し合いであることから、もし真剣で斬り合った場合たまたま相手に致命傷を負わせ自分が勝ったとしても、一つ間違えれば逆の立場であった可能性も多分にあったわけである。そう考えれば、単純に喜べるものではない。
 世界に剣道を広めようとしても、この辺の意識が理解されないと恐らく形だけの「スポーツ」になってしまうだろう。下手をすればフェンシングのような判定機が導入されるかもしれない。武道の一本は「心・技・体」すべてが充実して一本である。機械には「技・体」しか判定できないだろう。
 
「心」をはかることができるのは人間だけ。そしてその「心」を鍛える事が武道の目的でもある。
 
いろんなスポーツの選手でも1流の選手はそれを知っていると思う。
 
高橋尚子さん頑張れ!(なんじゃそりゃ)

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2005年11月 1日 (火)

剣道について

 11月3日は「第53回 全日本剣道選手権大会」が開催される。
 
 日本における武道は勝敗以上にその精神性に重きを置く。その他のスポーツはどうなのだろう?以下はその剣道の理念と剣道修練の目的である。

(剣道の理念)
剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である。
(剣道修練の目的)
剣道を正しく真剣に学び、心身を錬磨して旺盛なる気力を養い、剣道の特性を通じて礼節をとうとび、信義を重んじ誠を尽くして常に自已の修養につとめ、以つて国家、社会を愛して広く人類の平和、繁栄に寄与せんとするものである。

 結構大上段に振りかぶったような文言だが、これは剣道家であればほぼ暗記している。というのも、昇段審査では試合形式の「実技」、木刀による「日本剣道形」および筆記試験があり、この筆記試験では必ず書かされるため嫌でも憶えるしかないのである。(当の僕は7割方忘れていたのでさっき調べた。)
 つまりいくら強くても心が未熟なら意味無いよ、本末転倒だね。ってなもんですな。しかし少年時代に始めたこの剣道だが、これまでの先生方で傲慢と形容されるような人には1人も会ったことがない。そういう人もいるだろうと思うのだが、少ないのかもしれない。そうであれば剣道の理念はまさにお題目ではなく、本当に意味のあるものといえる。このような事は柔道、空手道、居合道、弓道、相撲道、合気道、少林寺拳法なども同様だと思う。これはなぜなのか

・礼に始まり礼に終わるという礼儀を重んじるため。
(「霊に始まり霊に終わる」これはこれでナイスかも!)
・個人競技のため常に一人で鍛錬することになり、自身の内面を見つめる機会が多くなる。
・高齢の先生方もたくさんおり、そんなお年寄り(失礼!)に全くかなわない自分の弱さを自覚するため。
 
 だらだらと出てきそうなので止めるが、僕自身がみるに高段者の方に共通しているのはまず落ち着き、感情に起伏が少ないというべきか、口数も決して多くはない。だからといって無表情な感じではなく、懐が広い自然体と言えば良いだろうか。しかし互いに構えるとまた違う。目が違う。その威圧感はそこらのチンピラなど話にならない。ほとんど動けない時さえあった。(余談になるがかつて読んだ司馬遼太郎の小説の中にあった話。新撰組の生き残りで永倉新八という剣豪がいるが、明治維新後の落ち着きを取り戻した頃、孫と一緒の所を数人のや○ざに絡まれたそうだ。ところが永倉の一睨みでたちまち、○くざは逃げ去ったという。)「気」といってもよいかも知れない。
 高段者に共通すると思われる事で一つ忘れていた。彼らはいわゆる「誇り」というものを持っているように思える。それは薄っぺらなプライドとは違う。
  
肉体の鍛錬が精神を向上させるのか、もともと高い精神性を持った人物が肉体を鍛錬しているだけか。よくわからない。筋肉が付くだけではダメだということは分かる。心の向上つまり霊性の向上、結局はここですな。武道などせずとも毎日が修行なわけなのだが。

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